こんな本を読んだ①ー『八本脚の蝶』二階堂奥歯
クロード・シャブロル『引き裂かれた女』(2007)の中で、フランソワ・ベルレアンは小説家として登場する。彼は「引用病」という病を患っており、彼が日常で発する言葉の何割かは、何らかの書物を「引用」している。
元・国書刊行会編集者である二階堂奥歯の日記であり、遺書である『八本脚の脚』もまた、書き手が重度の「引用病」であることを示した作品であると思う(ここでは敢えて「作品」であると言い切ってしまいたい)。引用と引用を並べ、連ね、重ねていくその流れは、まるでゴダールの映画のようであるし(褒めすぎであることは承知の上であるが)、文字のみで行われるDJのようでもある。それが決して幼稚なサンプリングでないことは、この本を読んだ誰しもが思う所であるだろうから、これと言ってその内容について言及はしない。が、彼女は極めて的確に、自分の人生に必要な分だけを好きな本からトリミングしていたという事実だけは記されたい。何故なら、彼女は自分の人生をなぞらえながら本を読み進めていくタイプの読書家であったからだ。
この本を読みはじめるに当たって、最初は大変困惑した。これは果たして、1P目から順番に捲っていって良いものなのだろうか?と思えて仕方なかったのだ。勿論、至って普通の小説やエッセイであればそのように読み進めていくのが適切であろうが、『八本脚の蝶』は、web上で公開され続けていた日記なのだ。そして、上記の通り遺書でもある。web日記(これはあくまで2001年当時の言い方で、今の言葉に置き換えるならブログである)というものを見たことがある人ならば誰だって知っている事実ではあるが、サイトの先頭にくる記事というものは、最後に書かれた記事のことを指しているものだ。つまり、サァ二階堂奥歯の日記を読もうと思って覗いてみると、彼女が自死を遂げたという文が真っ先に飛び込んでくるわけだ。読み手は、その事実を受け止めながら、過去へと遡っていく。要するに、web上で日記を読むときは、過去へと進んでいくのだと言うことができる。だが書籍化されてしまうと、彼女の死は一番最後に用意されていることになる。……この違いを、どう捉えたらよいものか。
結局、極めて素直に、1P目から捲ることにした(私は極めて素直な人間です)。人はどのようにして死へと向かっていくのかを探りながら読んでいくのも面白いかなと思ったのだ。まぁ、結局、さっぱり分からなかったけれど。結局、彼女は最初から狂っているように思えたのだけれど。結局、この日記自体も実に器用にトリミングされているのだと思うけど。結局……
text by K.M.