お茶のある日々 / 変化
それはまだ夏の盛りの8月のことでした。
8月は気温があまりに高いため、稽古はいつも1週目のみで、それ以降は8月末までしばらく夏休みのような、自由な日々が訪れます。しかし最近、10月の茶会に備えて特別稽古が行われることになり、もう一度稽古が入りました。その手伝いのため、2週目も稽古場に伺いました。
その日は確かに最高気温が35度まで上がった一日で、着物でお越しになった方々の忍耐強さと茶会に向けた覚悟がうかがえました。
皆さまがお帰りになった後、道具を順番に片付け、帰路につきました。汗をかきながら歩いていると、何か違和感というか、変わったような気がしました。その何かが何なのかはわからず、しばらく黙って歩き続けました。
そして、道中の小丘を越えたとき、ようやく気づきました。今まで夏を雄弁に語り、ミーンミーンと鳴いていた蝉の音がいつの間にか消え、今度は鈴のような音色がかすかにあちらこちらから聞こえ始めていたのです。
そのとき、日傘をさして炎天下に立ちすくんでいた私は、心なしか涼しい風を感じたような気がしました。
それから、気温はあまり下がりませんでしたが、蝉の音が弱くなる代わりに、夕方になると小さな庭の草むらから涼しげな虫の音が聞こえるようになりました。
その庭に面してお茶を一服すると、体にこもっていた暑さがすっと引いていくようでした。そして、自分自身がその静かに奏でる音になって、茜色に染まった少し寂しげな草木の中、風に揺られながら、夜の帳が下りるのをただ待つような、穏やかな時が流れました。
しかし、自分の存在を忘れかけたその瞬間にも、手のひらには、飲み干した茶碗のほのかな温もりが確かに残っていました。
この残る温もりは、一服の茶が終わったことを思えば寂しく感じますが、そこには少し楽しみも秘められているように思います。
夏の終わりは秋の始まり、夜になるとまた明日が来ます。この終わった一服を名残惜しく思いながらも、明日はどのような一日で、どのようなお茶が頂けるのかと考えると、なぜか心が弾みます。
人の心は変化に動かされ、感動するものですが、その変化はわざわざ求めなくても、日常生活の中にあふれていると感じます。
道端に生えている狗尾草の色、月の満ち欠け、朝夕の風の感触。思えば、何気なく過ごしている日々に、全く同じ日はありません。
当たり前のことのようですが、茶の湯を始める前は本当に意識もしませんでした。
真夏と変わらないほど厳しい残暑ですが、何かがひそかに変わり始めています。秋が深まっていくと、風炉も寂びて終わりに近づき、そして炉がやってきます。その時、きっと心の中で「ああ、また炉の時期が来たね。今年はどのような道具組みにしようか」とつぶやくでしょう。
遠州公は、若かりし頃に一度見た茶入「飛鳥川」を、後に年を重ねて再び見たときの感慨深さと嬉しさを理解できるような気がします。
古今和歌集の歌に由来して「飛鳥川」と銘を付けられました。その後、およそ六十九回に及ぶ使用記録が残され、いかに愛玩されていたかが伺えます。
本当に、変化はいつも遅いようで早いものです。そして、楽しい。