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週末の母心。子育ての“めんどくさい”と“愛おしい”の狭間で

週末が、おやすみが、とても疲れる。

こんな気持ちを、わかってくれる人はいるだろうか?
きっと、子育てしている人たちなら、共感してくれるんじゃないかと思う。


先週の金曜日にむすめが発熱し、保育園をおやすみすることになった。その週末は三連休だったので、むすめとわたしにとって、四連休ができあがったことになる。

おやすみが長くなればなるほど、わたしのメンタルは疲弊していきやすくなることに、最近気づいた。


最初の2日は、微熱がまだ続いていたこともあって、基本的にずっと家のなかにいた。タブレットを観ているむすめの横で、家事をしたり、自分もスマホで本を読んだり、映画を観たり。

それでも、むすめがタブレットを観はじめて数時間が過ぎると、やっぱり罪悪感が湧いてくる。「タブレットを休憩させなきゃ」と思うけれど、声をかけるのは、いつもちょっと勇気が要る。その後にやってくるであろう交渉・説得、場合によっては癇癪をなだめる時間を、いやでも想定してしまって、身構えてしまうから。

だから、できるだけ「ママが思い立ったタイミングで急にとりあげられた」印象を与えないように、考慮している。「あと○分したら、おしまいね」ってタイマーをセットしたりして。

けれど、タイマーが鳴ると、タブレット小休憩の是非についての応酬がはじまる。交渉と、説得。なんとかタブレット小休憩についての説得が完了すると、「じゃあ、〇〇して遊ぼう」と言われる。遊ぶ。遊んで2分で、なにかうまくいかないことがあって「もういい!やらないもん!!」となる。わたしは、ため息をつく。

それでも遊んであげる余裕があるときは、まだいい方で。

こっちはやらないといけないこと、やりたいことのリストが山積みで、「ごめんけど、遊べません」ということだってある。それでも、タブレットの休憩はとってほしい。でも、「タブレットをしない=ママと遊んでほしい」の図式が成立しているむすめにとって、タブレットをやめてください、でもママは遊べませんなんて言われたら「じゃあ、なにしたらいいのよ!」となってしまう。ここでもまた、交渉がはじまる。

この交渉や説得にかけるエネルギーをセーブしたくて、タブレットの休憩時間、今日はいいか…となってしまう日も結構ある。良くないなあって思うんだけど、自分のこころとメンタルのコンディションを整えるのも大事だから、致し方ないか、となんとか自分をなだめてあげる。

それでも、「今日一日、ほぼタブレットしかしてないやん、この人…」って日の夜は、もう、罪悪感がすごい。


ということで、四連休の後半2日は、なんとかむすめを家から連れ出してみようとした。でも、出不精なのだ、ふたりとも。そして、HSP気質で、つかれやすいのだ、ふたりとも。

なので、子育て世代が1日をつぶすために活用しているイオンモール的な商業施設は、お互いのメンタル的キャパの関係で、2時間程度が限界だ。かといって、どこかに散歩に行こうにも、そもそも家をでたいと思っていないむすめは、準備することすら断固拒否する。そこでまた、説得と交渉がはじまる。

この説得と交渉に、メンタルをゴリゴリ削られていく。非常に、つかれる。場合によっては、この交渉が1時間を超えることが、多々ある。10時くらいに家を出ようと思っていたのに、気づけばもう11時半やん。そろそろお昼ご飯作らなあかんくらいやん。もう、ええか…_(┐「ε:)_ と、すべてを諦めたこと、数知れず。


いざ準備が整っても、「じゃあ、どこ行く・なにする?」問題が立ちはだかる。

月末が近いので、お財布事情がかなりきびしい。諭吉さん数人で、2週間ほど頑張りたい。生活する分には、いけるんだけど、遊びにお金を使いはじめたら、諭吉さんが水のように飛んでいってしまうから、おそろしい。「水族館とか行きたい」って言われるけれど、ごめん姐さん、それはちょっと、いや、かなりきついっす…となる。じゃあ、どこ行くよ。どこもお金かかるやん。京都、物価高いのよ!観光都市だからって!もう!!

そんなときこそ公園じゃん!と声がどこからか聞こえてくる。(母の声に似ている気がするのは、気のせいだろうか)

わかってる。わかっているのだよ、そんなこと。
でも、今週の京都はまれに見る豪雪なのだ。買い物に行こうにも、自転車に乗ることすらはばかられる。仮にも病み上がりのむすめを、雪が吹きすさぶなか、公園で遊ばせるのはいかがなものか。ていうか、わたしが凍え死にかけるわ。

そもそも、むすめは公園に行きたいと望んでいない。わたしも、できることなら家でのんびり、ぬくぬくとコーヒーを飲みながら読書にいそしみたい。

ふたりとも外出することを、熱望しているわけではないのだ。


けれど、家にいると結局タブレットの背景音にメンタルを削られるし、「タブレット見始めて何時間?視力とかやばくね?てか、タブレットばっかでこの子の発育、大丈夫そ?」みたいな罪悪感にメンタルをゴリゴリされるのだ。

それでもやっぱり、タブレットに夢中になり、家に閉じこもっていると、なんだか疲れてくるのだ。わたしも、むすめも。

最初はのんびり過ごしているつもりでも、ずっと画面ばかり見ていると、疲れてきたり、飽きてきたりして、イライラしてしまう。その態度にこっちまでイライラして、ケンカになってしまうこともある。なんのための「のんびりおうち時間」なのか、わかったもんじゃない。


「結局、人間は『動物』だから、動かないとメンタル落ちやすくなるし、体調も崩しやすくなるんよ」というパートナーの声が、頭のなかにエコーする。うつを経験したわたしは、この言葉の重みを、痛いほどに実感している。だからやっぱり、まずは身体を動かして、家を出ようぜって思う。家を出てしまったら、結局なんだかんだで、楽しかったってなることのほうが多いんだから。


とかなんとか言って、むすめに話をする。『人間は動物』の話も、何度したかわからない。そうやって話をすると、むすめは最終的に「わーかったよ、わかったよ。もうっ…!」と言いながら、なんとか準備してくれたりする。(返事の仕方が、めっちゃJKな気がするのは、わたしだけだろうか)

ちょっとでも家の外の空気を吸うと、やっぱり、ふたりとも、なんだか気分がホッとする。頭もしんっと落ち着いてくる。だからやっぱり、お出かけしたほうがいいんだと思う。

でも、じゃあ、どこに行くのか。行く場所を決めても、そこに行くことへの交渉・説得を得るための努力。その間に溶けていく時間。気づいたら、もうお昼。理想と現実の、無限ループ。終わらない、メビウスの輪。


みたいな感じで、週末は過ぎていく。

子育てしてる人たちって、みんなこんな感じなんだろうか?
わたしが下手なだけなんだろうか?

むすめがまだ小さくて、抱っこ紐に入れてしまえるときのほうが、外出しやすかったなあ、って思う。自分の意思が出てきた今は、なにをするにも交渉・説得・歩み寄りと妥協・合意のステップが入るので、疲労感がとてつもない。


けれど、きっと、この時期のことを、とても愛おしく、思いだす時期が来るのだ。そのことを、わたしはすでに、しっかりと感じとっている。

SNSで流れてきた投稿に書いてあった。
「子育てで『めんどくさい』と思ったすべての時間こそ、子どもが巣立ったときに、『お願い、もう一度』と望む時間なのだ。だから、子育ての『めんどくさい』ことこそ、『しあわせ』なのだ」と。


子育てで、「ああ、もう、めんどくさいなぁ」って思うたびに、SNSで読んだこの言葉を思い出す。今はめんどくさいなって思ったり、「一人でのんびりする時間がほしい…!」って思ったりしていても。きっと数年後には、今のなんでもない日常の、交渉と説得をくりかえす、なんでもない時間たちが、大切な宝物になるんだろう。

だから、10年後、20年後の自分のために、今この「めんどくさい」時間たちを、精一杯、大切にしていってあげなくちゃな。そう、今日もわたしは、こころの中で思うのだ。「あー、もう、めんどくさいなあ」って呟きながら。

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ねう | こころと身体の専門家
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