ショックすぎた娘の幼稚園の現状と、そこから気づいたいろんなこと
一昨日の夜から昨日にかけて、娘に関わることでたくさんのことがあった。
園長先生から、娘のクラスメイトのとある子について、小学校に入学の際には、クラスをはなしてもらうように相談したほうがいいかと思うと言われたりしていた。
それを聞いて、わたしの脳内には、自分自身がいじめられ続けた6年間+3年間の記憶がかけめぐった。教室にいることの息苦しさ、窒息感、恐怖、不安。そういった当時の感情が鮮明に思いだされて、自分の娘もあの経験をするのかもしれないと思うと、もう平常ではいられなかった。
いろいろと園長先生に言われたことが脳内をぐるぐるしつつ、仕事に行った。幼稚園のお迎えの時間、担任の先生が出てきてくれて、より詳細に、現状についてお話する時間を設けてくださった(そういうところ、本当に感謝している。いい先生たちに恵まれていて、本当にありがたい…)
担任の先生から伝えられた現状は、こんな感じだ。
Aちゃんという女の子がいる。Aちゃんは、年少さんのときくらいから、うちの子と仲良しだ。そしてAちゃんは、かなり気が強く、リーダータイプの女の子。
数ヶ月前から、Aちゃんがクラスの女子たちの行動に口出しをしたり、他の子の代わりに彼女がみんなの意思決定をおこなうなどの行動が目立つようになった。そして、みんな、Aちゃんに逆らうとAちゃんが怒るのが怖くて、誰もAちゃんに反論したり、NOを言うことができなくなってしまっている…という現状なのだそうだ。
そして人いちばん敏感で繊細な我が娘は、もちろん「NO」ということはできず、「怒らせるのが怖いから」という理由で、Aちゃんに言われたことにはすべて従う、という状態になっているのだそうだ。
「今日もね」と言って先生が教えてくれた話。
お昼ご飯のときに、うちの子のお隣で一緒にお昼を食べたいと言っていた子がいた。しかし、うちの子は「ここに座っちゃダメ」とその子に言った。そういうことを言うタイプの子じゃないことを知っている先生は、うちの子になにがあったのか尋ねてみたそうなのだ。すると娘は、「Aちゃんにそう言いなさいって言われたから、言った」とつぶやいたのだそうだ。
いや、もう、それ、やばいやつやーん!!!
他にも、みんなが自由に遊んでいるときに、Aちゃんが自分がやりたいと思っている遊びへと向かっていく後ろを、無の表情でうちの娘が着いていっていた。先生が状況をたずねると「Aちゃんが〇〇の遊びをするのに着いてきて、見ててと言ったから、着いていっている」とのこと。「娘ちゃんは、それをしたいと思ってるの?」と先生がたずねると、「Aちゃんがそうしてって言ったから…」と娘。そして結局、Aちゃんが作業しているとなりで、Aちゃんに言われるままに、ずっとAちゃんのやっていることを見ていたらしい。
いや、しんっっっっっど!!!!!!!
えっぐい!!!!!!!!!
Aちゃんに対して、先生たちはどのような声かけをしているのかたずねると、先生たちも問題が怒ったタイミングでAちゃんに対して「それはAちゃんが決めることじゃないよね?」とか、「Aちゃんはそうしたくても、他のお友達がそうしたいかはわからないよね?」といった声かけをしているのだそうだ。さらに「そんなふうにいつもAちゃんが全部決めて、他の人の意見を聞かないで、怒って言うことを聞かせていたら、みんなAちゃんと遊びたくないって思ったり、いやだなって思ったりするよ」と伝えたりもしているらしい。
言われたときは、Aちゃんもシュンと反省するそうなのだが、やはり時間がたつとケロッと忘れて、また同じことをしてしまう。
Aちゃんも、たしかに問題がある。
同時に、うちの子が自分の気持ちや思いを声にして伝えることができないのも、たしかに問題だと思う。
すこしずつ、クラスの中で、Aちゃんに反論したり「それはおかしい!」と反撃する子たちも出てきていて、いい兆候だと先生は言っていた。とはいえ、まだまだ言えない子のほうが多いそうで、先生はそれぞれの子どもたちと個別に面談をして、「〇〇ちゃんはどう思ってる?本当はどうしたかった?」ということを聞いた上で、Aちゃんにも個別に面談をして話をしようとタイミングをうかがっているのだと言っていた。
正直、むずかしい塩梅だよなって思う。
子どもが「もう幼稚園をやめたい」って泣きだすほどストレスになっている状況ではあるので、母としては、そんな悠長なこと言ってないで、Aちゃんにちょっとしっかりヤキを入れてもらってほしいと思ってしまったりする。
同時に、先生たちが大人の権力を行使してこの現状を解決・収集したところで、主従関係の"従" にいる子たち(わたしの娘も含む)が、みずから自分の気持ちを伝えたり、適切なタイミングで「No」と意思表示をできる能力を養わなければ、結局、この先も同じような出来事がくりかえされてしまうだろうことは、想像にかたくない。
実際、娘に「NOって言っていいんだよ?」と言うと、娘は「でも、そうしたらAちゃんが怒るから」「そんなことを言うのは失礼だから」と返事をする。
怒られるくらいなら、波風をたてるくらいなら、黙って自分が我慢すればいい。それで穏便に、丸く、平穏におさまるのなら、そっちの方がよっぽどいい。
そういう考え方なのだ。
そして、わたしはそこであることに気づいて、衝撃を受けた。
娘のこの姿勢は、完全に、わたしがこの数年間、いや、30年間ずっと、母にたいして取ってきた姿勢そのものだったのだ。
うわああああって思った。
わたしだって、全然自分の心を守るための適切な境界線を引けていない。母が怒るくらいなら、母のルールに合わせたほうが楽だ。そうやって逃げてきた。そうやって、合わせてきた。そうやって、我慢を重ねてきた。
言葉では言っていなくても、そのわたしの背中を、娘はずっと見ながら育ってきたのだ。
子どもは親の鏡って言葉があるけれど、本当にそうなんだなって、大ショックだった。衝撃だった。
さらに、わたしは母に対してだけではなく、娘に対しても、適切な境界線を引くことがうまくできていなかったことに、ようやく最近になって気づきはじめた。
どこで「No」と言えばいいのかわからない。
「No」と言うことは、相手の存在自体に対する拒否であると、わたしは母の反応から学んできた。いくら頭ではそうじゃないことがわかっていても、幼少期から恐怖と支配によってすりこまれたこのパターンは、打ち砕くことがなかなかにむずかしい。
わたし自身が「適切な境界線」を引いて、適切に「No」というスキルを(特に身近な家族にたいして)もてていないのに、そりゃあ、娘がそのスキルを持てるはずがないだろう、とも思った。
でも、やっぱり、この「No」と言える力や、「適切な境界線」をしっかりと引くことができる力は、とても大切なのだ。特に、女の子にとっては。
過去の記事でも書いたことがある、こんな出来事も、結局突き詰めていくと「NOということができない」「怒られることが怖いからNOと言えない」という意識が原因になっている。
娘は、「怒られること」に対して、とても恐怖を感じる。「怒られるかもしれないから、正解を導き出さないといけない。でもその正解が分からないから、どうしたらいいか分からない」。幼稚園でも、そのストレスがとてつもなく大きいらしい。
これは、人いちばん繊細なHSCの特質でもあると思う。後はやっぱり(自分のことを棚にあげて全部を母のせいにするのは間違っているかもしれないけれど)母の影響も少なからずあるんじゃないかと思っている。
娘は、2歳くらいの頃から、わたしの母と過ごす時間が圧倒的に多かった。母はしつけ人間だったから、「これはダメ」「あれもダメ」「〇〇しなさい」「〇〇しちゃダメ」と息するように口にする人だった。それは、当時まだ小さかったわたしにとって、かなりのストレスだった。そして幼少期のわたしと同じような性格・気質をもっている娘にとっても、やはり多大なストレスだったろうと思う。
この数日間の出来事がきっかけで、本当にいろんなことを考えさせられ、自分自身の過去を振りかえるきっかけとなった。同時に、「わたしはママとして、どんな "在り方" を体現したいんだろうか?」ってことも、真剣に考えた。
結局、行き着く先は、いつも「自分自身」なんだよなって思う。
わたしの中にまだ残っていた学校という場所に対する恐怖や嫌悪感、不安感。そこに飲み込まれて、その不安から娘の周囲でまきおこるできごとを見てしまうのか。それとも、当時のわたしの傷にしっかりと気づき、それを癒してあげながら、切り分けて娘を見てあげることができるのか。
また、わたし自身が、分からないなりに、トライアンドエラーを繰り返しながらも、適切な境界線を引いていく練習と実践を、娘との関係をとおしてやっていって、「No」の言い方・伝え方や、適切な境界線を引いていくことの大切さを、背中で娘に見せていくことができるのか。
さらに、娘が外の世界で多大なるストレスを抱えて生きていることに思いを馳せて、家のなかを「娘にとっての安全地帯」とする努力ができるのか。これは、わたし自身が自分のケアをちゃんとすることや、自己中心的になってしまわないように、自分の器を広げていくことも重要になってくる。適切な境界線を引いたうえで寄り添うとか、相手に合わせてあげる(でも合わせすぎて自分を失うことはしない)みたいなバランスを、試行錯誤しながら見つけていかないといけない。
後は本当に、自分のメンタルや体調、過去のトラウマに飲み込まれて、パニックや恐れから、娘に怒りや不安をぶつけてしまわないように。これは、ほんまに、課題。本当に。
そういう自分自身に対する課題と、乗り越えるべき目標のようなものも見えてきた。そしてなによりも。やっぱりわたしはママとして、どこまでも娘の応援隊長でありたいし、娘が安心してこの世界と向き合っていけるように全力でサポートしてあげられる存在でありたいと思う。
自分自身が、まだ「この世界に対する安心感」を回復させている途中にいながら、それを娘に背中で見せていくのは、正直かなりむずかしいなって感じてる。でも、昨日よりも今日、今日よりも明日。わたしが進歩すればするだけ、それはきっと、全部娘に還元されるから。
がんばろうって思う。
そしてやっぱり、娘の存在がなければ、わたしはこんなに自分と向き合うことも、進化成長しようと努力しつづけようとすることもなかったと思う。だから、娘の存在は偉大だし、やっぱり彼女は、わたしの成長をサポートするために来てくれたんだなぁってことも、思ったりする。
もうね、本当にね。
子育てって、自分育てだよなって。
いっぱい考えて、間違えることもあると思うけれど。
母が何世代も前から受け継いできた負の家系に流れているカルマは、わたしの代で断ち切るから。わたしと、娘の代で。きっと、そのために生まれてきたんだろうなってことを、思ったりもする。
大変だけど。
しんどいけど。
でも、それができるから、こうやって生まれてきたんだろう。
わたしも、娘も。
そんな、ちょっぴりスピリチュアルなことにも、想いをはせる新月前夜。
新月の洗礼を、今からすでに、かなりのレベルで受けている、ねうです。
今日も、おつかれさま。
よく頑張った。
自分をたっぷり褒めてあげて。
娘もたっぷり褒めてあげて。
今日はゆっくり、寝てあげよう。
ゆっくり、少しずつ、進んでいこう。
一緒に、ね。