波の音を聴いていた#4
しばらくしてリィ坊は身体を起こして
「お昼、もらってくるからよ〜」
と言って立ち上がった。車に向かう時も、身体中にくっついている砂を気にする様子はなかった。リィ坊の華奢な後ろ姿を見送りながら、ふと、僕らはいつまた逢えるのだろうと思った。
一人になってからも、ぼんやり海を見ていた。白く縁取られた澄んだ波が、かすかな音とともにゆらゆら寄せては返していた。
この波は、と思った。
この波は、親父が死んだときも、僕が泣いていたときも、争っていたときも。憎んでいたときも、怒鳴っていたときも、ずっとこんな調子で寄せては返していたのだ、と思った。僕のことなんか知らん顔で……。そう思うと、さらにさかのぼっていろんなことが想い出された。
ほんの1年前、トウキョウに上京して意気揚々としていた、その前は──
雪のちらつく福岡で上京を控え限定解除した、その前は──
夜も昼もなく街も峠も海もさんざん走りまわっていた、流れる風景、美しい彩りのスピードメーターとタコメーター、前を走る友だちのテールランプ、その前は──
新しい母の死、死の前は──
たくさんのチューブにつながれてベッドに横たわっている新しい母の寝顔、ああ、そう、モルフィンで混濁しながら、呼びかける僕の声を探して、白い目を必死に開こうとしていた新しい母の顔だった、それから、
親のいない一人きりの高校の卒業式、式より前は──
友だちとの他愛ないじゃれあいやけんかや真剣な話、でも、
電話口で「またいつか必ず一緒に暮らせるから」と言った新しい母の声、
学校から帰ったら誰もいなくなっていた家、
夜まで待っても帰ってこなかった新しい母、その前は──
高校入試、初めての福岡、その前は──
沖縄だった、中学校の卒業式、新しい母が来てくれた中学校の卒業式、運動会で新しい母が三段重ねの重箱に作ってきてくれたおにぎり、うまいうまいおにぎり。
「おまえなんか本当の母親じゃなか」と叫んだのは中学生のころ、さびしがりやの連中と傷を舐めあったいくつもの夜、リィ坊や、ヒートーや、ナカシマーや、ヒデオ、その前は──
新しい母に思いきって「おかあさん」と初めて呼んでみたあの日、その前は──
二度と帰らないと決めた鹿児島、親のいない一人きりの小学校の卒業式、担任の先生が僕を隣に座らせてくれた、あの頃は──
大暴れした挙げ句に10いくつも上の義兄に殴りかかった夜、
見るたびに小さくなっていく母の寝顔、
幻の世界の中で僕にご飯をよそおうと、僕の前を通り過ぎて名前を大声で呼びながら病院の廊下を歩くイカれた母の後ろ姿、その前は──
EXPO75
沖縄海洋博、めんそ〜れ沖縄、ああ、ここに沖縄がいたか、母がいたか、新しい母もいたか、死んだ親父もいたか、みんないたか、
母の笑った顔、壊れた時計のネジを巻きながら笑いかけるあの顔──
ささやくように穏やかな波の音を聴いていた。波の音を聴きながら、想い出していた。涙がぼろぼろこぼれていたが、昨日のそれとはまるっきり違うものだった。それは恍惚とした悲しみだった。あたたかく、深い深い悲しみだった。