昭和ガメラと侮るなかれ『大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス』(1967)
昭和ガメラだからと過小評価されているのではないか。怪獣映画として文句なく名作。
前作『大怪獣決闘ガメラ対バルゴン』はこちら
とかく、昭和ガメラというのは、見くびられがちです。
その裏には、複数の要因があると思います。
そもそも制作経緯からして、東宝の特撮映画に対抗して作られた後発作品であること
(シリーズ途中から)ウルトラQ以降の第一次怪獣ブームに便乗している感があること
シリーズが進むごとに進行する「子供向け化」と「低予算化」
そして、平成ガメラ3部作という優秀なアップデートが成立してしまって久しいこと。
これらのことから、昭和ガメラを後世から評価しようとすると、どうしても「子供だましの低クオリティ映画」というイメージがつきまとってしまうのは仕方がない部分があります。
したがって、シリーズの魅力を語る時の評価点は、思い出補正、大らかさ、ゆるさ、といった、低クオリティを前提とした切り口になってしまいがちです。
しかし本稿は、こと『ガメラ対ギャオス』に関しては、思い出補正など必要なく、作品として名作であると申し上げたい。
本作は昭和ガメラシリーズの中で出色の出来であるだけでなく、怪獣対決映画として、相当によくできた作品であると思うのです。
ですからぜひ、昭和ガメラに対する色眼鏡をかけずに向き合いたい作品です。
『子供目線』と『子供だまし』のはざまで
たしかに本作は、子供の目線で語られます。
前作『対バルゴン』とは異なり、子供が主役のフォーマットをとっていますから、相対的に子供向けになった印象があるのは事実です。
しかし、主人公の男の子は、後の『対バイラス』や『対ジャイガー』『対ジグラ』で見られたような、子供の領分をはるかに越えた無茶な活躍をするわけではありません。
あくまでも、『子供目線の代行者』にとどまっている。このバランス感覚が秀逸なのです。
私はリアルタイム世代ではありませんから、公開当時の子供の心情は想像することしかできません。しかし、怪獣ブーム華やかりし時代の中で、子供たちは怪獣に対してそれはもう熱狂的であり、「怪獣についての知識なら誰にも負けない!」と自負していたことでしょう。
しかし、彼らの現実には怪獣は存在しません。自慢の知識が人生の中で活きることはないのです。
きっと彼らは、「もし怪獣が本当に現れたなら、自分が持ち前の知識や発想力を生かして対策を考えたりして活躍できるかも」と妄想することもあったでしょう。
その受け皿として、本作の主人公は最適にチューニングされているのです。利発で、怪獣の知識や発想力にこそ長けているけれど、あくまでもただの子供であるという味付け。
だからこそ、主人公がガメラの背中に乗って空を飛ぶシーンでは、観客の子供達は主人公に自己投影して、彼と一体になることができるんです。
そして、人間ドラマパートと怪獣要素の絡ませ方も秀逸です。
舞台は、まさに高度経済成長期。
高速道路の建設予定地となった村で、住人たちが建設反対運動を繰り広げている真っ只中です。しかしその実、彼らの目的は用地買収の際の賠償金を吊り上げることであって、そのためのポーズとして反対運動をしているに過ぎないのです。
しかし、事態はまさに怪獣によって、急変することになります。
村の近くに「人喰い怪獣」ギャオスが生息していたことが判明。そして、高速道路の建設計画自体が頓挫することになります。
こうして怪獣の存在と人間のストーリーが直接関連するだけでなく、要素がかみ合って群像劇としても成立している。そして子供の視点から描かれることで際立つ大人の汚さ、経済大国となる前の日本の人情劇は心に残るものです。
特におじいちゃんの改悛と、山を焼く決心の場面などは、むしろ大人になってから見ると感ずるものがあるでしょう、
ギャオスという、完璧な敵
本作を語るのに欠かせないのが、ギャオスの存在です。
彼はガメラにとって完璧な敵役と言える、秀逸な怪獣として設定されています。
ガメラが見せる人間の子供への愛着と、ギャオスのもつ人肉食の習性は、まさに対極に位置していると言っていいでしょう。
熱をエネルギーとするガメラに対し、炎や太陽を苦手とするギャオスと、どうやっても相容れることのない両者の対比構造は明確です。
それでいて、ギャオスはガメラと同等かそれ以上の飛行能力を有しています。
これは、ガメラ自身の作劇上の最大の強みである「高速飛行できる機動力」をフルに生かせる相手だということを示しています。
富士山麓から名古屋港、そして富士火口での決戦へと舞台を変えつつ戦いを繰り広げていく様は、まさに「大怪獣空中戦」の看板に偽りなし。
そして互いの得意なフィールド、苦手なフィールドでの攻防が移ろっていくので飽きさせず、見応えがあります。
また、演出面ではとくに「人間を食べる」というのがギャオスの最大の個性で、ガメラシリーズ中でも異彩を放っています。
特撮怪獣映画はどうしても巨大怪獣と人間のパートが分離されてしまい、別の世界のように感じられて、緊張感が失われてしまいがちな問題をはらんでいます。
そこに人肉食という要素を持ち込むことで、怪獣の恐怖は一気に身近になって、人間との直接のからみも作ることができます。東宝のバラゴンやサンダについても同じことが言えますが、この設定はやはり良いものです。
ギャオスの初登場シークエンスの不気味さと、直前まで嫌なキャラクターだった記者が迎える哀れな最期、人間とのスケール感の対比は秀逸です。
このように、ガメラをホスト役とするシリーズにおいて、ギャオスは最高の相手として設計されているし、事実そのように機能していると言って差支えないでしょう。
怪獣映画としての正しさ=怪獣の登場時間
そして、なんといっても、怪獣がかなり「出ずっぱり」なのが本作の美点です。
怪獣を看板にしている以上、怪獣映画の価値は怪獣の登場時間に比例するのです。観客は怪獣見たさで来ているのに、人間がしゃべっている場面ばかりでは、よほど会話劇が上手くない限り、間が持ちません。
本作はバトルシーンも複数回あるだけでなく、それ以外の場面でも、怪獣が人間と直接絡む機会が多く、何度も顔を見せてくれます。
その上、幕間でも両者が傷を癒やすシーンが挿入されたりして、とにかく登場時間が長い。
それにより、「怪獣映画を観た」という満足感が非常に高いのが素晴らしいのです。
工夫が凝らされた怪獣対決映画の名作
そして、怪獣映画に共通する弱点として挙げられるのが、着ぐるみの制約によるアクションバリエーションの少なさですが、本作はその点に対しても相当に健闘しています。
ガメラとギャオスの激突も、序盤と名古屋市街と最後の決戦、計3回にわたります。
序盤は山の尾根で画面の左右に分かれての戦い、名古屋市街は空中戦と画面の上下での戦いと、それぞれシチュエーションの違いと構図が工夫されていて、じつに楽しい。
ギャオスの能力が未知だった緒戦こそ苦戦したものの、相手の手の内がわかるにつれ、戦い方を変えて最後には勝利するガメラの頭脳派ぶり。
きちんと考えられたバトル展開です。
『人間の考えるギャオス対策』も、ただ戦車や戦闘機が撃ちまくるだけではなく、血の匂いでギャオスをおびき寄せ、回転展望台を使った「回転作戦」や、ガメラを意図的に呼ぶための山火事作戦といった、ロジックがありながらも奇想天外な作戦が楽しいです。
あらためて観ても、対決路線、娯楽路線の怪獣映画としてバランスが良い名作で、怪獣映画の歴史上、素晴らしい仕上がりの、名作に間違いないでしょう。
昭和ガメラに偏見のある皆様にもご覧いただきたい一作です。