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会話、話すこととは魔法

話すこと会話することとは星の粒を練り上げてそれをぶつけ合うことだ。当たった後にどうなるかはその人が意味するものとは遠い川のむこうにある。私は変化したい!会話することによってみるみる色をかえていきたい。鍋を食べたときに内側から四方八方に身体の芯から温まりたい。それがあまりにも面白い。
 この世界はあまりにも面白くない会話が流通しすぎている。学校の授業だったり、お店の店員とだったり、学校、会社、店、とにかくあらゆる日常で表面的な意味しかないものだったり、意味とかではない流行のような定型文をAIのようにある言葉に対して決められた文言を発するだけになっていたりする。それがたまらなくストレスだ。一言一句問いただしたい。その言葉には中身はあるのかと。で、だいたいは謎の思い込みの共通認識が垂れ流される。いい加減別のことを言ってほしい。自分で創作してほしい。他者に持たされた道具をただ使って手数の少ない脳死の連打はやめにしよう.
  LIGHT HOUSE、坂口恭平がスペースで千葉雅也や梅ラボと話しているときやいのっちの電話だったりその会話を聴いているとあっ、これが本当の会話だなと感じた。ラジオも結構そうだったりする。
 本当の会話とは何だろう?まず私が前方で挙げた本当の会話をしているのを聴くと、「本当」に引っ張られて噓を言っていないのと偽っていないという創作の基本がある。前提がある。嘘を言っていないというのは外部の思い、願いじゃなくて自分が本当に心の底から無意識も意識も超越した空っぽの自分、外部から見ると恥ずかしい自分だ。しかしそれは決して恥ずかしいことではない。
 よく自分の悩みを言ったり苦しみを言ったりすることはよくないこと。だったり嘲笑の的になったりすることがある。そういう世界はあまりにも苦しい。人々を弱くしている。大体の人が抱えている苦しみを確実に存在しているというのに観ようとしない。ないものとしてしまっている。ないものとしていたらその苦しみのエネルギーはどこへ行けばいいのかどう消化すればいいのか。そのエネルギーを放っておいたり毒物を身体の中に溜めていたら身体が壊れるのは当たり前である。明らかに身体の表面に出てくる。それは周りの人々をよく観てその人の悩みだったり苦しみをよく聞いたりしてみるとよくわかる。その人たちが休んでいるタイミングだったりその休んでいる症状とその人が感じている苦しみを照らし合わせるとすぐに身体の不調と心のがっしりとした関係が観える。もうそれでしかないぐらいかもしれない。ちょっとためしてほしい。
 話すことに戻す。人のことを知りたいなら、人のことをわからないと実感することだ。実感とは五感で物事を感じ、あるいはというか、常時六感も使って長い間自分で考えたり人に聞いたり要するに勉強することだ。
 多くの人は「勉強」を勘違いしている。思い込んでいる。まあそれは当たり前な感覚だ。なぜなら学校でやっていることは勉強ではないからだ。学校でやっていることは技術を身に着けること。形式をそのまま改変せず、教える人の人間性を無視、排除する。工場の機械に作業の仕方をプログラミングをするように広がりのない教え方をしている。そこから抜け出すには自分で「勉強」するしかない。自分は学校などでやって形式だけの作業を「お勉強」と呼んでいる。
多くの人は勉強というと堅苦しくなる。それに使い方も堅苦しくてこっちまで嫌になるから学校でやっていることだったりつまらないことは'お'を強調して「お勉強」と呼ぼう。本当に清々しく自分のやりたいいことを追求していてやっていることだけを「勉強」呼ぼう。
 色々なとこに飛ぶのは良い。広がらないと面白くない。今のやり方だといつまで経っても投稿出来ないのでどんどん途中でも投稿する。軽快なステップで外に出る。





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