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小さなだけど大きな、だけどなんとでもないこと。
何か作ろうと思う時、その形がどういう位置にあるかによってそれは変わるだろ。例えば石が1つあるとする。その石を4つのマスがあるどこかに置くとする。1のマス、2のマス、3のマス、4のマスとそれぞれ名付ける。
1のマスに置くのと2のマスに置くのとでは全然違うことだ。それが分からない人がいる。起きていることが違う。事実としては1のマスに置くのと、2のマスに置く。それを遠くから観ると1のマスに石を置いたときは「1のマスに置いてあるなあ」と言葉で表現出来る。2のマスに石を置いたときは「2のマスに置いてあるなあ」と表現出来る。そこに良し悪しはない。けれど違いはある。どっちを作りたいのか。まず何かを狙って作るときはこれを考える必要がある。今日、学校で言われて驚いたのは、モルタルで地面に施工していた木の板を改修して新たに何か(石などを)を設置するということをした。なんか文章がまどろっこしいなぁ。まあ続ける。
そこで
縦長の石を下の画像の上の方の絵のように縦長の石の上の隙間が狭く下の隙間が狭く置くのと
縦長の石の上と下の隙間が正確ではないにしろ同じぐらい隙間が空いて置くのと違いがあるだろう。
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それを言ったとき、あなたはすごく繊細だと言われた。その違いが観れないんだと思った。
しかしそういう観点の話しではないことに気づけた。単にその人たちがイライラしていたからだった。自分の伝え方、態度が悪かった。それが最後蜂の巣を突いてしまったのだ。でもその怒りのもとには諦めがある。作り出した絶望がある。それは仮想の絶望で実は何か言葉に出来ない監獄の中に縛られて動きを制限されているのだ。仮想の監獄だ。透明な、形を持たない檻である。その監獄にすら気づかせない人間の構造を学校や会社では作っている。その罪人たちも気づいていない。から罪人ですらない。仮想の監獄の住人の1人である。何か自分にやれそうなことが一瞬目に入った気がした。作る幸せの先の創作物の中身のような部分に開かれるように流せるのかもしれない。まだまだ「べき」が含まれている状態なので難しいが楽しくなってきた。じっくり寝かせよう。