買い出しという家事のお仕事にはg当たり以上のお値段の重みが!キャベツの半玉を買って考えた後で
キャベツが高級食材になってしまう?
値段が落ち着いてきた?キャベツ半玉の値段が半玉158円になったので少し思い切って買ってくる
昨日の夕方スーパーで地元産のキャベツ半玉で158円。1玉が198円でした。
地方で特産のキャベツです。
私が確認していた時点で少し前のお値段は1玉で298円でした。
わ、高くなってると感じてしばらくキャベツを買うのを控えました。
そして、つくづくモノのお値段という変動する相場というものを感じました。
市場は奥が深いなと感じます。
本来スーパーはスーパーマーケット。すごい市場という直訳になるような用語の略された言葉が定着しています。
まさにお店の中には市場があるのですよね。ドラマティックな世界です。
スーパーの中に水族館では回遊する魚のようにあっちにこっちにフラフラと歩いて私はいろいろと考えます。
最初に鮮魚など買うとどんどんぬるくなるのでなるべくなら早く買うものを決めて帰るのが理想です。
けれど現実は30分なんてあっという間に過ぎます。
店内放送でゆっくりとお買回りくださいなんていう言葉を真に受ける私も私です。
ま、販売目線からすればお店の中の顧客の滞在時間に比例して売上も増えますよね。
メモを用意しておいてそのメモのリストだけをさっと買って帰るお客さんを時々みかけます。
特売品だけを安く入手しスマートに済ませる。消費者として賢い一つの理想形かもしれません。
カットされたキャベツの付加価値
ところで、カットされていないキャベツの隣にはパックで200gのキャベツが1パックで98円で売られていました。
7日間の保存が効くカット野菜でした。
加熱専用と書かれていたそのカット野菜。
洗わないですぐに使えてとても便利そうでした。
最初は使い切るならカット野菜を2回に分けて使い切ることも視野に入れてみます。
単純に安さだけならカット野菜のキャベツの方が単価は安いんですね。
でも安物買いの銭失いという格言が頭によぎります。
加熱専用なのですからサラダにはなりません。
だからといってまるごとキャベツの1玉を買って食べきるには量が多すぎます。
きちんと使い切ることを考えてあえて半玉で買いました。
半玉のキャベツを仮に2個買えば1玉のお値段が300円以上になります。
でも、あえてそこを半玉のキャベツを高く買うことで私の納得感は重くなり何かしら充実した気持ちでお店を出ることができました。
一人暮らしですので欲張って1玉買って傷ませるのももったいないのです。
半玉のキャベツはおよそ480gの重さがありました。
私の食品の相場感
キャベツは1玉100円前後で買うというのは私の相場感覚です。
日々物価が変わっている中でできるだけ底値の際にお求めやすい時に買っておきます。
牛乳も1パックで200円弱で、卵なら1パック150円弱で買うというような感じです。
大葉やニラやほうれん草は100円弱で買います。
高知産のみょうがは欲をいうと120円を超えて買うのは少しだけ抵抗がある感じです。
キャベツの千切りが急に価値の高い食べ物になる。
まるでサンマが高級魚になるような…。
私の若い頃は1本100円を切ってセールでは2本で100円で買えたころもあったように覚えています。
キャベツ半玉の価値が実に相対的にずっしりと重くなったかのような感じがします。
価値の高いものを買って気分を上げてそのウキウキワクワク感をずっと抱えながらお料理に励みたいなと考えて帰宅しました。
新鮮なうちにキャベツをどうお料理しよう?
お好み焼きでもいいですし、コールスローのサラダにしてもよし。
多めのサラダ油で素揚げにしてキャベとんラーメンを作ってもいいですね。
回鍋肉みたいなものもとても美味しそうです。
お、書いているうちにお腹が空いてきます。
野菜の高騰を食べ物を見直すきっかけとして
先日に聞いた1玉が500円を超えるというニュースに私は驚かされています。
ある人はキャベツ買うくらいなら代わりにモヤシをたくさん買っておいて安くなるまで我慢するよとまでお野菜も高騰しているような勢いです。
今まで安く買うことができたのがどんどん手頃に買えなくなる。
物価高騰で生活が苦しくなるのは見過ごしてはいけないことだと思います。
しかし生産者や販売者が薄利で困り同時に最終的な消費者としての立場のときには生活に苦しむのもおかしなことだと思います。
食品の廃棄がより問題視されています。
なるべく食べきるように工夫する時代の流れの中で食べ物を粗末に捨てるのは心苦しいものです。
生産者および販売者の苦労には感謝をしつつありがたくキャベツを新鮮なうちにお料理していきたい。
スーパーで消費者の一人として考えた次第です。
キャベとんラーメンの生まれた地元愛知県で私は素揚げした甘みのあるキャベツを食べて元気を出そうと思います。
ただ買うだけの消費者の立場はお気楽か?
消費者の立場であれ買い物はビジネスの一環
家事労働としての食品の買い出しについてキャベツを半玉だけ買ったことを通じ今回の創作大賞2024年のビジネス部門として今回の記事に挑戦しようと書き始めました。
ビジネスは販売の目線で売ることだけという概念を打ち破りたいのです。
例えば小売業に携わる者は買うのも仕事のうちです。つまりは仕入れです。
仕入れの仕事も販売に負けないくらい実に厳しい世界です。
ではその逆にスーパーで買うお客さんは趣味や娯楽だけで食べ物などを買いに来られているのでしょうか?
断じて違いますね。顧客のほとんどが1円でも安くて新鮮で良いものをなるべく早く気軽に買いたい。
売り手と買い手。両者の攻防が繰り広げられるシビアな世界です。
ましてや一般に最終的な消費者は今回キャベツを買っただけでそれを売ることはないので大きな意味合いのないことだ。
そんな風な俗な評価の声もきっと予想されます。
ドラマや小説などでよく見かけるような
主婦(主夫)は気楽でいいよな?誰のお金で飯が食えると思ってるんだ?
的な発言です。
とんでもないですよ。
どの口がそんな事言えるんですか?
お言葉ですが私達の多くは自分の労働力を売る必要があります。
その労働力の維持のためには家事労働が必須です。
労働力の再生産労働という家事労働の本質を見損なうなんて目線はおかしくないですか?
そして働いていない方であっても多くの人が家事労働に迫られます。
つまりは体力の維持の源泉として食品の買い出しつまり家事/家事労働にあるのは私は間違いないと考えています。
つまりは個人的なただのプライベートな趣味や娯楽性みたいな時間としてのみ買い出しがあるというような意味合いで買い物を価値の薄いものという価値観の空気のようなものには断じて反抗し抗議すらもしたいのです。
あ、誰に向かって怒りをぶつけるような文章を突然出してしまいました。
あいすいません。
メンタルをやられて休んでいた際に私がお金を稼がない生活を続けてるとどうにも自分には生産性がなく劣った存在だと感じた頃がどうしても辛かった。
今も記憶がよみがえるんです。社会につながっていないかのような疎外感。それは主婦/主夫でそのようにも感じると聞いたことがあります。
そして加えて制服を着たヘルパーさんらしき方が買い物のメモを見ながら次々と商品をカゴへ入れてお仕事をされているのを見かけるようになりました。
しかしヘルパーさんの社会的地位はまだまだ高くなっていないままだと感じます。
もっと家事に直接関わるお仕事をされている人たちが注目を集めてもいい。
そんな思いも今回の投稿記事に込めて臨みました。
家事/家事労働の一環としてのお買い物がただただお買い物という次元を超えてビジネスの世界につながっています。
モノの購買行動や消費生活の奥の深さやそれにまつわる面白さを少しでも語ることができたならば望外の喜びです。
ここまで読んでくださり本当にありがとうございます!
皆様におかれましては新鮮なお野菜が食卓に並びますように。
そしてまたの機会にもお会いできますように。
P.S.もし今回の記事といっしょに目を通してもらえたら嬉しいです。