本質と現象という二項対立についての雑記
人文社会科学における特徴的な思考様式に、構築主義がある。色々なひとが色々な難しいことを言っているが、要するに、ぼくたちが知覚できるのは、ことやものが「社会的に構築された姿」で、ことやものそれ自体を直接触れたりそれについて考えたりすることはできないという考え方、とひとまず定義しておこう。これは誰が言ったとか始めたという話ではなくて、いわゆる知的伝統というやつなのだ。
構築主義の具体的な起源を辿ろうとすると、ぼくたちは西洋哲学の祖であるプラトンにたどり着いてしまう。プラトンというひとは、ぼくたち人間は洞窟の中に監禁されていて、真の世界の光に照らされたことやものの影しか見えていないのだと考えた。いわゆる洞窟の比喩というものだ。真の世界はイデア界と呼ばれていて、哲学者だけがこの仕組みに気づいて洞窟を出てイデア界を目指す=世界の真の姿を確認することができる、というわけだ。
現代に至るまで、ぼくたちが理性的だと思っている思考の大半は、プラトン以降の西洋哲学の系譜に位置づけることができる。プラトンのこのような世界の捉え方は、二世界論と呼ばれ、あらゆる形で後世のひとびとに継承されている。ものごとには隠された本質があって、その本質を隠蔽するようにことやものは世界に現象として現れている。人間は知的に成熟すると、本質=イデアに触れることができるようになる、という考え方だ。突拍子もないと思うかもしれないが、「本質を見抜く力」だとか、「隠された真実」みたいな考え方は、あらゆることやものが、今ここに現れている状態とは異なる内的な性質を隠し持っていると考える点では、全部このプラトンの思考の影響下にある。
プラトンの考え方を発展させたのはカントという哲学者だ。カントの世界観はもっと徹底していて、人側には基本的にことやものの本来の姿、カントの用語では物自体を認識することはできない。かわりに、ものがこの世界でどのように現れているかという現象の世界を認識できるのみだ。カントは、ぼくたちの認識の枠組み(感性と悟性)が現象としての世界を形作っていると考えた。世界が先にあるのではなく、認識が先にあるのだ。だから、ぼくたちがことやものを見ようとか聞こうとしたその瞬間に、物自体はぼくたちの感性や悟性に合わせてその姿を歪めてしまう。
このように世界の様式を本質と現象の二項対立で捉えて前者を理性の領域に、後者を経験の領域に分類するような考え方が、ぼくたちの世界には根強く残っている。人間の本質とか、社会の本質みたいなものを捉えようとするのは人間のサガなのだろう。しかし、ぼくはこのような二世界論的な二項対立にはあまり賛同しない。理由は端的にいうと、ぼくがこうした二項対立に批判的な社会学をベースに知的自己形成を図ってきたからである。
社会学の領域では、本質と現象というこの二項対立すらも、社会的に構築されたものであると考える傾向が強い。たとえばバトラーというフェミニストは、生物学的性差=セクシュアリティと、社会的性差=ジェンダーの二項対立そのものを疑問視する。生物学的性差は本質的な性差、つまり変えられないものなのだろうか。そうじゃなくて、社会がそういう違いを要請しているのではないか?と考えるのだ。世界の秩序を作り出しているのは人間の認識の枠組みや言語であり、本質的ななにかというのも、その枠組みの中で形作られた人工物でしかない、というわけだ。
社会学をはじめとする現代の人文社会科学は、言語論的転回というパラダイムシフトを経ている。簡単に説明すると、西洋哲学では伝統的に言語は基本的に世界に対するラベルだと考えられていたため、言葉を世界とどのように正確に対応させるか、ということを考えてきた歴史があるが、ソシュール以降の現代言語学はこうした見方を否定した。理屈はこうだ。もしも、言語が世界に既に存在する概念をラベリングするような性質のものであれば、すべての言語が同じように世界を分節していないとおかしい。しかし、現実にはそうなっていない。
面倒なので具体例はたくさんは出さないが、例えば日本語は水と湯を別の単語で区別するが、英語ではどちらもwaterである。日本語で虹は七色、英語では六色である。日本語で貸す、借りるという動詞は、フランス語では同じlouerを使う。言語によって概念の分節が異なるということは、言語こそが世界の見え方と概念の枠組み決めているということに他ならない。こうした世界の見方の変化、つまり言語は世界のラベルなのではなく、言語が世界を作っているという見方への変化を言語論的転回と呼ぶのである。
ぼくの基本的な認知の枠組み、ヴィトゲンシュタインの言うところの「像」は、極めて社会学的なので、本質と現象という二世界論的な世界の在り方を純朴に肯定するのは難しい。ぼくは、そのような二項対立を持ち込むことが社会的にもたらす意味の方に注目してしまう。すべてに変えがたい本質が宿るという発想は、人間を自由にするよりは不自由にするように思える。そういう意味で、ぼくはかなり素朴な構築主義者である。
構築主義を徹底して考えれば、「本質」も社会的構築物である。何もかもに意味をもたらしているのは人間の言語の側で、ことやものそれ自体が宿している本質などない、というのがぼくの基本的なスタンスだ。
だからなんだと言われると難しいのだけれど、そういう発想で世界を見ているので、例えば僕はジェンダーに関してはかなりリベラルな感覚を持っているし、障がい者と健常者、子供と大人、異常と健常、異性愛と同性愛など、自他の境界を殊更強調する議論にも批判的だ。ぼくたちの世界に本質的な「違い」など存在しない。違いを要請しているのは常に社会の側であり、それを個人が引き受けて生きる分には何の文句もないが、個人が否応なしに押し付けられるのは間違っている。
世界はもっと曖昧で、僕たちはみんなグラデーションを生きている。バイナリーなのはデジタル世界だけで十分である。生きていると、何かと窮屈な二項対立に閉じ込められがちだが、時には関節を外して世の中から逃避するような軽やかさを持ち合わせていたいものである。