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何をしてもダメなら、好き勝手に生きていく。
昔、全部周りに合わせて当たり障りなく生きようとしたら、自分が何をしたいのか、何が好きなのか、わからなくなった時期があった。
そんな時期を経て、今の私がある。
でも、どんな時の私もぜんぶ、今の私へ繋がっている。
人は毎日たくさんのことを決めている
明日、何時に起きようか。
起きる時間になったけど、二度寝してしまおうか。
朝ごはんは食べるか、食べないか。
自炊するか、買うか、外に食べに行くか。
仕事は何時に終わらせられるか。
人は毎日、9000回だか、3万5000回だかの決断をしているのだという。
ほとんど無意識のものもあれば、仕事で熟考した上で下す決断もあるはず。とにかく、毎日ものすごい数の決断をしているらしい。
点と点が線になって繋がった自分
仕事を辞めること、海外へひとりで行くこと、新しい会社を決めたこと、結婚すること、姓を変えること。
私が最近経験した決断の中で、比較的大きな事柄たち。
私は勝手な人間なので、どの決断にしても誰にも相談しなかった。
(もちろん親や周りに事後報告はする)
でも、それで良かったと思うことは沢山ある。
なぜなら、人生が自分のものである実感を得られるし、自分で決めた責任を背負うことができるから。
手触りのある、実感のある暮らしをするには、「自分で決めたことだから」という軸が、私は必要だと思う。
実感のない世界での理不尽は自分が引き起こす
冒頭の話に戻ると、私には感情も意思もなくしたロボットみたいな時期があった。(と自分では思っている。)
比較的長い間、そうやって過ごしていたら、だんだん自分が自分として生きている実感が湧かなくなった。
全てどうでもよく思えて、周りに合わせて、周りに委ねた。
でも当時の私には、周りと上手くやるための大事な処世術だった。
何をしてもあまり楽しいと思わなかったし、その現状を変えるための努力も工夫もしなかった。ただ、受け流す力だけがついていった。
そんなある日、友人に言われた一言で覚醒した。
「アンタ、ほんとつまんないよね~」
何気なく言われた言葉だったけど、理不尽だと思った。
「私は我慢しているのに、なぜそんなことを言われるのだ」
たぶん、そんな風に思った。
繕って、相手のことを考えて、当たり障りない会話をして、話を合わせて、輪に存在することを許してもらえるよう、私なりに頑張っていたつもりだったのに。
自分と相手の気持ちは相互作用する
今思えば、その頃の私は一方的だったのだと思う。
勝手に自分を殺して、勝手に相手に委ねて、調子を合わせることにストレスを覚えても、相手のためと思って当たり障りなく返して、相手に配慮したつもり。
友人に言われた言葉は、今なら最もだと思う。
私と話していても、「糠に釘」だったのだ。
意見を発して気分を害されるのも、対立するのも、仲違いするのも、全部回避しようとして何もなくなった私は「つまらなかった」のだ。
私も自分の生き方をつまらないと思っていたけれど、自分がつまらなければ、相手もつまらないのかと初めて知った。
何をしてもダメなら、好き勝手に生きていく
それからは、どうせ疎まれるなら、好き勝手に生きて疎まれようと思った。
誰かと仲良くしなきゃいけない、嫌われたくない、当たり障りなくいたい、ずっとそう思っていた。
でも、その結果が「つまらない」なのであれば、私にとってもストレスだった、人の顔色を伺う行為は無駄だし、何をしていたって、絶対に誰かには難点が映る。
何をしてもダメなら、好き勝手に生きていく。
そう思えるようになったのは、私が自分にかけた呪いを解いてくれた友人の一言があったから。
手触りのある因果応報の中で生きるために
今、私は日々の決断を自分で決めていると実感を持って言える。
自分で決めたが故に、進んだが故に、面倒事が起こることもたくさんある。
それでも、ロボットより何倍もマシだと思う。
もし、あのときに理不尽だと思ったままだったら、ずっと大事に、理不尽を抱えて生きていたと思う。
自分の下した決断は、いつかきちんと返ってくる。
返ってきたときに、後悔しない選択を。
ご清聴、ありがとうございました。
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