twitterアーカイブ+:映画『ペンギン・ハイウェイ』感想:性衝動と特異点
映画一回目
「ペンギン・ハイウェイ」を観てきた。私は今回は原作を読んでいないため森見が凄いのか監督が凄いのか判断できないのだが、心ある者は今すぐ観たまえ。諸君はアオヤマ君を通して、男という生き物の底の底を浚うことになるだろう。ただ、女性がどういう感想を持つかは私には丸っきり分からない。
これが一部の観客に「女性蔑視のおっぱい映画」と酷評される理由は分からぬでもない。だが、そう評する者が本当にその表現で適切だと思っているかは疑わしい。私には、それは語彙力と知識の欠如が招いた語弊のように思える。
アオヤマ君はお姉さんを自分と対等な人間として見てはいない。それはある種の立場からは批判されることだろう。だが、アオヤマ君がお姉さんを人間扱いできないことは、どうしようもないほどにどうしようもないことなのだ、という感覚が実はこの映画の根幹を成しているように思える。
アオヤマ君の妹が泣くシーンは、この物語全体の思想的な要であり、なくてはならない。これに関連して、私はウーマン・リブの田中美津のとある言葉を思い出すが、ここで挙げるには及ぶまい。
(補足)これは、田中美津の次の記述を指している。原典(『いのちの女たちへ』か?)に当たれなかったため、概説書から孫引きする。
もちろん、小学生のアオヤマ君とその妹の「歴史」というものに対する感覚が、この時点で生殖機能や社会的性役割の違いによって分化しているというのではない。ただ、この映画がロゴス(論理)とピュシス(非論理、自然)の葛藤の物語であり、それぞれが男(アオヤマ君)と女(お姉さん)に仮託されていることは疑う余地がない。
アオヤマ君はお姉さんに「歴史」を見出す。そしてロゴスの徒であろうとする彼は、それを生命の進化のイメージに寄せて語る。しかし、自分がお姉さんに対して抱く好意や畏怖を言葉にするのに、お姉さんを一旦「女」に一般化してから生殖の本能によって説明するやり方が全く的外れであることを、彼自身も知っているのだ。それでもロゴスはピュシスを分節しようとせずにはいられない。ロゴス(ペンギン)はピュシス(お姉さん)から生まれ、ピュシス(〈海〉)を分解し、お姉さんは消える。しかし、お姉さんという一つの表現が消えても、ピュシスはほとんど至る所にあり、その根源から消えるわけではない。いわばロゴスの営みとは、この逆接の反復を続けながら、滅ぼすためにピュシスを求める終わらないモグラ叩きである。
「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」と並んで、「シリーズ 【男子とは】」のラインナップに加えたい映画だ。「打ち上げ花火」は、映画館から帰宅して一瞬真顔になった後に部屋の中で暴れ回るような映画だったが、「ペンギン・ハイウェイ」はLCLの海にゆっくりと沈んでいくような映画だ。
私はまだ原作を読んでいないし、森見作品の中では読んでいないものの方が実は多いのだが、私が読んだ中では「太陽の塔」が最も近い構成なのではなかろうか。少なくとも私はそのような視点でこの映画に臨んだし、結果として、絵は四畳半的ではなくとも、やはり確かに森見の系列に連なる物語だと感じた。
だが、万人に勧めたい映画ではない。私見だが、この映画を楽しむためにはある種のプロトコルが必要で、それなくしては観ても混乱して終わるだけなのではないかという危惧がある。「打ち上げ花火」で爆死した方は注意されたい。
(補足)ある種のプロトコル……後述する「お姉さん非実在解釈」のように、出された描写に現実的な筋の通る説明を考えるのではなく、何らかの表現意図の象徴として一旦呑み込むシュルレアリスム的態度のこと。
2018年前後に公開された有名なアニメ映画にはこのような鑑賞態度を要求するものが多かったという印象を持っている。2016年の『君の名は。』も、「瀧が元いた世界線ではいつの時点で三葉が死んでいないことになったのか、また三葉の死を阻止しに行った瀧の記憶は修正されるのか」などの点で整合性を気にすると混乱する。先立つ2013年の『魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』はこの傾向に影響を与えただろうか?
仮にも物理で博士課程にいる私だが、小学生の頃からアオヤマ君のような几帳面な学者肌であったわけではないし、今もない。だが夜中にふと世界の果てや死について考えることや、異性を前にして起こる感覚は彼とよく似ていた。今も似ている。小学生男子がそうであることを、諸君はおかしいと思うか?
「ペンギン・ハイウェイ」にはむしろ、アオヤマ君の剥き出しの性欲がある。これこそが、性欲と呼ばれているもののいっそう原初的な形態だ。極微を突き詰めていけば極大へと還ってくる……
普通に観れば、ジョニーはどこにも出てこないので安心してよい。だが、射精やセックスを知る前にも性衝動はあり、それはデストルドーと紙一重のところにある、という私の立場には非常によく符合する映画だ。アオヤマ君がお姉さんに向ける感情と「世界の果て」は、元々一つのものなのだ。
(補足)ジョニー……『四畳半神話大系』『夜は短し歩けよ乙女』に登場する、通俗的な意味で言う男性性欲を擬人化したカウボーイ的キャラクターのこと。
アオヤマ君が「世界の果て」を見たのがお姉さんであったことは、ある意味では救いだ。何故なら、そうでなかった場合、例えばハマモトさんに「果て」を見てしまった場合の末路を我々は知っているからだ。遠野貴樹が「永遠とか心とか魂とか、そういうもの」の在処と呼んだものを、アオヤマ君も見たのだ。
(補足)遠野貴樹……『秒速5センチメートル』を見よ。
遠野貴樹は「そこ」に再び戻るために過去へと手を伸ばし続け、アオヤマ君は未来へと歩むことによってこそ「そこ」に再び戻れることを確信するに至った。アオヤマ君は稀有な例で、現実の男の多くは貴樹になる。また、この二者の違いはそのまま、貴樹と明里の違いでもあるのだ……
ところでアオヤマ君がスズキ君を怖がらせるためにでっち上げた病気が確か「スタニスワフ病」だが、これは明らかにスタニスワフ・レムで、となれば「ソラリス」即ちソラリスの海、まさにこの物語に相応しいオマージュだ。逆にこのことは、この物語をソラリス的に解釈することの正当性を担保している。
だが、この種の物語の心的過程としての側面を解釈する際には、私は結局『ポケットの中の野生』(中沢新一)を座右の書として挙げることになる。私は「意識のへり」の概念をこの本から学んだ(小学六年生の時に地元の図書館で読んだのが忘れられず、大学に入ってから買い直したのである)。
宇宙は心(ゼーレ)であり、宇宙のへりは意識のへり、秩序(コスモス)のへりだ。故に、その境界の向こうは矛盾に属する。〈海〉や死の循環的性質、そしてペンギンとジャバウォック、これらは全て「矛盾の統合」という極めて精神分析チックな概念で捉えることができるはずだ。
釘宮ショタのウチダ君については、私はさほど思い入れはない。彼は物語に深みを加えはしたが、この物語はあくまでアオヤマ君のものだ。「一人一人が主人公」という類のものではない。アオヤマ君は可愛いし、私はアオヤマ君にリーマン球面を教えたい。チェスはできない(私はボードゲーム全般に弱い)。
(補足)〈海〉は世界の果て(≒全方位における無限遠)が一点と同一視されたものであり、複素解析におけるリーマン球面と同様の構造を持っている。平面が外側からめくれ上がり、小籠包のように端が中央の一点に集まるところを想像していただきたい。≒としたのは、実際に人間が世界の果てと認識しているものは真の無限遠ではなく十分遠方にある球殻であり、同一視する先も実際には点ではなく十分小さい球殻であろうと考えるためである。実際、作中で世界の果てであるのは〈海〉の中心ではなく、水面である。
この同一視を、複素平面上の無限遠点を原点に移す座標変換とみると、作中で川が〈海〉の周りを取り巻く円環になっていたことが説明できる。私の知人による説明のリンクを記載するが、2023年1月時点で非公開アカウントのため、本文にも要点を記す。
https://twitter.com/nuutarouimo/status/1038808589152837632
複素平面$${z=x+iy \quad (x,y\in {\bf R})}$$において、〈海〉が出現する前の川を$${x=a}$$の直線とする。〈海〉の効果を表す変数変換$${z\rightarrow 1/w\equiv 1/(\xi+i\eta) \quad (\xi, \eta \in {\bf R})}$$により、$${|z|\rightarrow \infty}$$の点が全て$${|w|\rightarrow 0}$$に移る。実部と虚部の対応はそれぞれ$${\xi=a/(a^2+y^2)}$$、$${\eta=-y/(a^2+y^2)}$$となる。ここから$${y}$$を消去して$${\xi}$$と$${\eta}$$の関係を求めると、$${a^2\eta^2+a^2(\xi-1/2a)=1/4}$$となり、図形としては$${w}$$複素平面上で$${(1/2a,0)}$$を中心とする半径$${1/2a}$$の円となる。こうして無限長の直線が閉じた円に移された。
本来、私はアオヤマ君にとってのお姉さんのようなものを「世界に開いた穴」と呼んでおり、「世界の果て」とは区別して使っている。開区間の境界という意味では同じだが、「世界の果て」では世界の単連結性を仮定し、その世界の外点のみを指す。つまり、「世界の果て」は地理的なニュアンスに限られる。
(補足)穴を避けてどんどん遠くに行くことで目指すのが「世界の果て」、近くにも遠くにもあるが近付いても穴の縁を降りていくばかりでそこに到達できないのが「世界に開いた穴」、というニュアンスで使っている。
さて、私にとって最初の「世界の果て」の記憶は、重信町であった。当時東温市という名称はまだない。母の運転する車が私を乗せて国道11号線を走っていく時、私は「人間の痕跡はこの先どんどん減衰して、いずれどこでもない場所に辿り着くのではないか」という想像に捉われたものだ。
当時、我が家の用事のためには夜に家を出発しなければならぬことが多かった(本四連絡橋が全線開通していない時代である)。諸君は絵本『おしいれのぼうけん』を知っているだろうか? 重信へ向かう夜の国道が、私にはあの絵本に出てくる、ねずみばあさんの国へ続く夜の道路に見えた。
地理的な意味での「世界の果て」はイメージしやすく、「果て」を考える際には「世界に開いた穴」はたかだか有限個であるから無視される。アオヤマ君とウチダ君の「プロジェクト・アマゾン」も、本来「果て」を目指すものだった。しかし、それは後に「世界に開いた穴」であるお姉さんと同一視される。
(補足)「世界に開いた穴」とは女性器のことを指しているのではない。私はここで、もっと不定形で根源的なものについて述べている。異性愛男性にとっての女性と「世界に開いた穴」とを重ね合わせる心理について、詳細を以下の記事の「少女が謎であるとはどういうことか」の節で述べた。
「穴」が「果て」と同一視されるという描像は、二次元の図ではイメージすることができない。よって、この場合考えるべきは三次元の図であり、三次元で言えば、明らかにトーラスである。トーラスと言えば「君の名は。」のご神体だ。幽世は円周の内部にあり、そこではあらゆるものが循環し再分配される。
彼方は内奥にあるということ、極微の中に極大があるということ。これらは恐らく時代感覚で、物質文明への不信や精神世界への関心、実存主義への傾倒と無関係ではあるまい。矛盾を許容すること(弁証法的な視点を持つこと)は喜ばしいことだ。秩序や道理とのバランス感覚を失わなければな。
もう一つ、原作を読む前に言及しておかなければならないことがあるとすれば、この作品の舞台である「今まさに宅地造成されつつある郊外の町」とは、ポケモンの原風景でもあるということだ。田尻智は町田の雑木林で虫取りをしたり、暗渠を探検したりした思い出からポケモンを生み出したのだから。
「世界の果て」、そしてポケモンとくれば、もはや私が言うべきことは一つで、我が座右の書である『ポケットの中の野生 ポケモンと子ども』(中沢新一)を読みたまえということになる。郊外の町の、緑の森に流れる水路は、確かに無意識の暗がりへと続いているのだ。
原作
『ペンギン・ハイウェイ』原作を読んだ。なるほど、確かに森見だが、他の森見とは毛色を異にし、しかしやっぱり森見だ(私は森見を全作読んでいるわけではないが……)。映画を四畳半や夜は短しのような絵面にしなかったのは正解と言える。四畳半は言うなれば戯画だが、本作はそうではない。
原作も映画も同じ思想を含んでいるが、映画はウチダ君仮説を削り、アオヤマ君の父の台詞を足すことで、思想の配合率と言うべきか、押し出す方向と言うべきか、それをやや変えている。それでよいと思う。依然として映画にも、二通りの解釈が可能だが……。
(補足)二通りの解釈とは、「お姉さん実在解釈」と「お姉さん非実在解釈」である。お姉さん実在解釈では、我々が日常を過ごす物理世界と同じ法則を持った世界にアオヤマ君もお姉さんも実在し、お姉さんをめぐる不思議な出来事は全てアオヤマ君の心情によって脚色されたものであるとみなす。このうち最も下世話な解釈が、〈海〉の拡大と収縮がお姉さんの生理周期の暗喩であるというものだろう。
対してお姉さん非実在解釈は、作者が少年を主人公として描きたかった心情を先験的なものとして、登場人物もストーリーも全てその心的過程の具象化として作ったものだ、という解釈だ。これは神話が何らかの自然現象や教訓を象徴的に描くために作られたのと同じで、我々の物理世界と同じ物理法則や論理を前提としない。従って「お姉さんは本当に消滅したか」という問い自体が意味を持たない(消滅したと書かれているのだから、消滅したのだ)。私は非実在解釈の立場を取る。
ウチダ君仮説を映画から削除するかどうかは、実在解釈と非実在解釈のどちらがもっともらしいかには影響しない。しかし私は、ウチダ君仮説を削った方がテーマが分かりやすくなるとは思う。ウチダ君仮説は生の仮説であり、その後のアオヤマ君の夢のシーンから考えるに生とは孤独である。一方「世界の果て」は死ないし自己の溶融に通じ、他者と一体になる安心感をもたらす。アオヤマ君が最後に言う「ペンギン・ハイウェイをたどっていく」とは、ピュシスを追ってロゴスを行使し続けること(そして、死に向かって生き続けること)を指しているはずだが、ウチダ君仮説の孤独なイメージは少しばかりそのラストシーンの希望的な雰囲気を乱す。
森見作品はほとんど盛り上がりもなく淡々と語るが、その淡々と語るという点に、森見主人公に共通する自意識の高さが表れる。主人公は事件が終わって威厳を回復してから、回想として物語を記しているような印象を与える。しかし映像はリアルタイムを描くのだから、ペンギン・パレードはあれでよいのだ。
ところで、操刷法師は主観的には決して幸福とは言えない少年時代を送ってきたので、映画のハマモトさんの「一生ゆるさないから!」が癖になってしまう。
映画二回目
「ペンギン・ハイウェイ」を観てきた(二回目)。原作を読んでからもう一度観ると展開がやや早く感じる。「早く先を見たい」という欲求が薄れ、「これをもっと見ていたい」という欲求だけが残るからだ。それは大人が少年時代を懐かしむ時の目線そのものだ。
二度目以降の鑑賞時は特に、レイトショーなどの人の少ない上映回を選んだ方がよいと思う。筋書きへの集中が弱まる分、随所で一般人フィルターが働いて「このシーン、あそこの親子連れは眉をひそめるのでは?」「そこの老夫婦は意味分かるか? 白けていないか?」などと余計な気を回してしまう。
「ペンギン・ハイウェイ」がリーマン球面の話であることはもはや明らかだが、この描像は「平面上の任意の点が世界の果てであること」を示唆する。世界のあらゆる場所に、またアオヤマ君たち一人一人の中に、世界の果てはあるのだ。「小さく折り畳まれて内側に潜り込んでいる」とはそういう意味だろう。
(補足)「平面上の任意の点が世界の果てであること」は、アレイスター・クロウリーの「全ての男女は星である」という言葉と重なるように私は思える。
議論
ここで、Sangyoh_sus氏が「典型的な男子の成長物語は父殺しをテーマとするが、『ペンギン・ハイウェイ』においてこのような乗り越えられるべき父の役割を担ったのは何か」という疑問を携えて議論に参戦した。
(以下、twitterのツイート埋め込みの慣例に従い、操刷法師以外の発言は文字起こししない。)
操刷「父を殺して母を奪還するプロセスは、象徴界に参入することで母子一体状態を回復しようとするが、まさにその象徴界によって母子一体状態を解体してしまうという構造を持つとすれば、アオヤマ君は本編開始時点で既に父を殺しており、本編で順当に母を殺したというのが私の見解です。」
操刷「私はその通りに理解しています。海は集合的無意識あるいは意識のへりであり(ジャバウォックをわざわざ水棲生物にしたことに私はそれを見ます)、ペンギン・ハイウェイとは海を離れて大陸を横断し再び海に戻る道だという解釈です。」
操刷「調査隊らが父であるという着想はありませんでした。アオヤマ父は息子に殺される前に降伏し和平を結んでしまった(研究者として認めた)と見れば、別の「父」がきちんと殺されねばならず、調査隊らを出し抜くための行動が結果的にお姉さんを消したというのは筋が通ります。感謝します。」
(補足)2023年1月現在では、私は上記とは少し異なる理解の仕方をしている。これはどちらかと言えば映画への理解ではなくラカンへの理解の仕方に属するものかもしれない。曰く、アオヤマ君にとっての母子一体状態とはアオヤマ君の実際の乳幼児期にあり、それが失われたことへの補償としてお姉さんが、物語の序盤から既に対象aの代理表象として表れる。そして、ロゴスの作用によってペンギンとお姉さんの謎へのフェティシズムを解体し、別の代理表象(消えたお姉さん)に向かう。
何によって母子一体状態が失われたか? そこにアオヤマ君の父が関わらなかったと想定するのは難しい。本来の父殺しの対象はアオヤマ君の父であるが(「りっぱな大人になる」やそれに類する記述)、現時点では勝てないし今の対象aであるお姉さんとの関係は妨害しないので今回は見逃され、代わりに調査隊や警察官が直近の父殺しの対象として見立てられた、と私は考えている。
映画化にあたってアオヤマ君から消えた二大スキルがあり、これを消すだけで実際自意識過剰インテリめいたキモさが半減するのだから、大した一般人感覚シミュレーション能力だと思う。
(補足)二大スキルとは、ポケットの中でメモを取るスキルと独自の速記法で人に読めないメモを書くスキルを指す。「記録」と「暗号化」に執心する人間は私を含めみな自意識過剰インテリめいてキモい。記録は多くを自分の手の中に残そうとする強欲と、自分の手の中に多くのものがあることを周囲に示そうとする傲慢であり、暗号化は被害者意識と選民思想の表れである。
お姉さんとハマモトさんの役割分担は、『太陽の塔』の水尾さんと邪眼のそれに極めて近いと私は思う。遠くて捉え所のない存在と、近くて峻厳な存在。四畳半では再びそれが一人に合流しているように見えるが、森見作品の女性に共通して使われている要素は今思いつく限りではこのように整理できるだろう。
『ペンギン・ハイウェイ』感想のアーカイブを微修正した。特にラカン的解釈の部分について補足を加えた。
今の私は「お姉さんは最初から対象aの代理表象であり、ラストでは別の代理表象に置き換わっただけ」「最初の去勢は順当にアオヤマ君の乳幼児期、故に本来の父殺しの対象はアオヤマ父であるが、勝てないしお姉さんとの関係は邪魔しないので今回は見逃され、調査隊らが父に見立てられた」と考えている。
よって、この物語を通したアオヤマ君の成長があるとすれば、それは去勢ではなく「自分が対象aに動機付けられている」という気付き(まさしく精神分析が通常その役割を果たすような)であろう。着地点がそこであることは他の森見作品にも通底しており、それ以外の成長というものはあまり描かれない。
ああ、そうすると、『四畳半神話大系』の「成就した恋ほど語るに値しないものはない」とは、まさに対象aの周りを回る欲望の運動が止まる、象徴界の穴が不可視化されることの没意義さのことを指しているのかもしれんな。
〈以上〉