仏教ざっくり超初学

仏教って・・・

なんかめんどくさいイメージがあると思うんです。でもいきなり結論。

人間、生きてると苦しいじゃん?

はい、仏教の原点と、そのトライ&エラーの歴史は全て、これの解決のためにあります。バカみたいにめんどくさい文書や用語の数々は、「問題を増やさない」という試行錯誤の歴史と努力の結果です。これだけきくと、あんまり宗教っぽくないですね。

仏教の人は比較的丁寧な言葉遣いをする人が多いですが、敬語ですら「人は無礼な態度を取られると不快になるか、最悪キレる」という経験則に基づいて「言葉を正せば無用に衝突することや、伝達ミスや誤解されることは減らせる」という仏教上の経験の結果なんです。当たり前かつえらそうに聞こえるかもしれませんが、実際常時気を付けてやってる人はなかなかいません。仏教で重視されるのは認識と経験と因果です。そして、仏教者はその結論に基づいて実践します。

ですから、相手が「おめえのそのだりい口の利き方キライなんだよ」と言ったとするなら、「んじゃYOブロー、今問おう。こんなfeein どう?このファッキンシットYO?」となるわけです。人によって礼も感覚も違う。仏教をやってる人間は、どこで流行ったかしらない冠婚葬祭マナー聖典みたいに強硬に紋切り型の流儀を断定しません。この「お前がおかしいのはお前のせい」と断定して押し切らないのが仏教的には比較的正しい。

大乗仏教

ところが、比較的初期の仏教ってものすごいアタマエクストリーマーばかりなんです。哲学とよく同列に論じられるのですが、決定的な違いがあります。恐らく一部の人は、仏教も哲学も真理の探究だと思ってるかもしれません。

・仏教にとって、それは「副次的な手段と必要」にすぎない。
・哲学にとって、それは「目標」である。

という明快な違いがあります。仏教は、「知る必要があるなら知ろう」というのが元々のスタンスなので、因果として必然的と考えられなければ「忘れてしまいなさい」が正しいのです。

ところが、仏教のアタマエクストリーマーの巣窟である上座部は、原点には近いけど「全部解明すりゃいいんじゃね?」となった人が主流です。真理の探究とは違いますが、「人生という現象」を全部解明しようという哲学者傾向の強い集団です。やたらと用語を生み出したのは大体こいつらであり、哲学に刺激されて大学つくったのもこいつらです。哲学と仏教が近いように見えるのは、連携こそしないものの、一応相互に影響があったからです。

で、そういう頭脳集団が集まると、そもそも仏教ってそれやりたかったんだっけ?ってなるわけですよ。仏教の目標は「だって、生きてると苦しいじゃん?」の解決であって、「学問オタクになって世俗のくそと縁を切り、虫唾の走る凡俗どもを全部論破し尽くして勝利宣言して追い返す」ことにはないわけです。

キリスト教でも、一部原理主義的エクストリーマーが「神の秩序を知らない人の姿を模しただけの豚共に容赦してたら教義もへったくれもないし何もまわんないだろーがこのデコ助野郎」と憤慨するような人もいます。ですが、地球の大半はその低劣で愚鈍なデコ助野郎なんですよ。もちろん、自分のことも含んでますがね。

必然、「世俗向けの親切教義があっていいじゃない。みんな生活で大変だし、いきなり仏教オタの修行だのネイティブ言語なんか無理だよ!」というごくごく当たり前の動きがありまして、んじゃ仏教界の成果を一部還元する格好で納得してもらって間口広げてけばいんじゃね?となったわけです。

大丈夫?今日?

だいたい、大乗仏教ってなんなんだよこの野郎?っていうと、いうてこの世は無知蒙昧を絵にかいて更に1000回汚しかけてクソぶっかけた凡俗でできてんじゃん?という「狂ったド畜生やド底辺や低劣な凡俗」を対象とした仏教を「でけー船だからみんな乗れる(大乗)し救われる」という仏教エリートに対するアンチテーゼ的な大風呂敷で釣り上げる「衆生救済プロジェクトX」みたいなカンジです。既に述べたように、元々仏教は衆生救済なんか掲げてません。「(正しいことをすれば正しくなる(問題が減り苦しみも減る」が元々のスタンスです。

日本は大乗仏教が主流です。宗派や教派がいっぱいありますが、そこも元々世俗向けを指向したためです。比較的源流に近いところで、禅宗、真言宗、天台宗、曹洞宗、日蓮宗あたりでしょうか。解釈の違いなんかも当然ありますが、開祖が違って仏(主になる仏さん)さんが違ってお題目が違って、とにかく1つの伝え方じゃ人間わかんないよ、という一応もっともな理由で個々にもっとかみ砕いたり流儀を変えてみた、仏教源流の派生諸派という理解でいいです。

よりわかりやすく言うと、原初のラーメンが日本に伝わり、更にローカライズやアレンジが加わって、とんこつや魚介ダシ系とか二郎とか、個々に軸となるスープが違って、更にまた店ごとにトッピングや調理なんかが違うみたいな感じです。ただし全部ラーメンです。

大乗仏教になると、一気に宗教色が強くなります。「祈れば救われる」ってのはただの方便というのがぼくの漠然とした解釈で、「薄汚い凡俗の心理を巧みに利用しつつ、あの手でこの手でなだめながら「仏様に喜ばれることをして慈悲と救済を乞いましょうね」と言い続けることで教義を少しずつ飲み込ませ、まず言葉もろくに通じない人間以下の正常化をはかっていくというのが「元々の構想段階にあった」のではないかとぼくは考えます。

とにかく、日本でも仏教がいくらか権威化されちゃったりしたので、大乗仏教すら仏教エリートを生み出すというほんとに笑えない状況がありますが、大乗仏教は元々無知蒙昧でくっさいド畜生のための仏教です。


蛇足

ただし、注意しなければならないのは、いわゆる「宗教団体」はほぼカルトだということです。大乗仏教が権威化されちゃって、近寄りがたいのでそもそも仏教て葬式だろとか言っちゃう人も普通に溢れかえる仏教無知が多いことにつけこんでいるのが仏教カルト、いわゆる宗教団体です。

「祈れば叶いますよ」というのは大乗仏教の典型的な方便(撒き餌)ですが、困ったことに悪用しやすいんですよ。しかも、日本仏教界も権威主義(縦社会)ですから、これも悪用されて「上が真で下が誤」とかいう、文字通り下を人間とは認めない超絶ブラックな組織構造もきっちりコピーしています。言われるまま従属する、善導なんてキレイな言葉とは一切無縁の、文字通り畜生と飼い主の最低最悪の組織構造です。

仏教の原典である釈迦は「あなた様の素晴らしい教えを遍く世に広めましょう」と主張する弟子に対して「やめときー。どうせ伝言ゲームになって曲解されて跡形もなくなるのがオチだから。」と否定的な見解を示していました。予言は当たったわけです。

この話、大乗仏教だと「後に梵天勧請があって意見を変えた」とする説がありますが、たぶんウソです。恐らくですが、弟子たちが再三再四懇願し、決死で説得したものの釈迦は取り合わず、最終的に「自分の意見は変わらないし、お前たちが今後、その行いの因果全て背負う覚悟ならいんじゃね?ぼくは止めたからね?きっちり覚えておいてね?」ってな感じだったんじゃないかと思います。

原点的な仏教のドライさから言って、釈迦が万民を救えなんて言ってないのことは間違いないんですよ。「ちょー あんた釈迦っちでしょー? あんたのすげえ教えで人は救われるっつーけど救われてない人いんじゃんww どーなのこれwww」と煽られて「正しく行を積んだ人間はみんな救われてるし、やってないやつの責任なんかぼくとれないしね」と冷淡に反論しています。この言葉を聞けば、釈迦がどんな考えを持っていたかは一目瞭然でしょう。

なので、仏教が衆生救済を掲げてるというのはウソです。釈迦の言う通り、「自発的な意思で『正しく行わない』人間が救われる」なんて道理はどこにもありません。大乗仏教だって、結局は祈らせて仏様をすごいと持ち上げることで人間てちっぽけだよ、自分で思ってるほどすごくなんかないよと説得し、そこを突破口に「行を積ませる」のであって、人を変えているのは信仰というより行なんですよ。

このトリックの部分がわかっちゃうと、宗教団体の「祈りなさい」が当たり前に間違ってることがわかっちゃうので、ここで明言しました。じゃあ啓蒙セミナーとかでも同じじゃねーの?となるんですが、現にその通りです。

ただし、大乗仏教を「真面目にやっている人」は、やはりこの世界に対して理想的であってほしいという想いがあり、その分だけ人に対して善意的なのは事実です。また、信仰心もそれなりであることが多いです。信仰が無意味みたいな言い方をしていますが、「不純な信仰は害」だとぼくは思っています。

特に「祈らされている」仏教カルトの信仰(仮)なんかほんとにやらないほうがマシなんですよ。間違った精神性を、不純な祈りと一緒に自分に刻んでしまうからです。仏教カルトがとにかく祈らせるのは、祈ることによって依存を引き起こすからです。人は投資したら返ってくることを期待しますね。そこで「かなったら『我々の徳』」「かなわなかったらあなたの努力や信仰心が足りない」と刷り込むわけです。

特に、後者の害は絶大ですね。この宣告をするとき、仏教カルトの幹部は「あなたはダメな人だ」と説教や啓蒙の体裁で刷り込んで、自尊心を破壊し、更に依存心を引き出すんです。最終的に「生きてるだけで感謝です。〇〇会がなければわたしは生きていけません」というほど依存し、感謝(?)するようになるわけです。欲で釣られ、お前はダメだと再三刷り込まれ、自分の正しさは〇〇会の正しさだということに書き換えられ、思考も判断も放棄し、文字通りただの操り人形になるわけです。

仏教に関する誤解

ぼくは大乗仏教を間違ってるとか言う気はないんですが、初期の仏教や上座部や、その歴史やエピソードについてもちゃんと知った方がいいですよ、という立場です。ごちゃごちゃうっせえ!!ってなりますが、じゃないと、「釈迦が衆生救済を望み、我々がそのミッションを引き継いでいる」なんて与太話をうっかり信じ込んでしまうからです。

仏教に「絶対に肉を食ってはいけない」というルールはない

これは事実です。昔は日本全体でよくよく実践されてましたが、方便として「兎は鳥(獣じゃない)から食っていい」とかいうよくわからない文句が存在し、そのせいでは兎は1羽2羽と数えるようになりました。そもそも、獣かどうかなんて仏教は問題にしてないです。

「無用な殺生はやめましょうね」と言ってるだけです。わかりやすく言えば、「既に殺され捌かれ調理された肉は、もう生き返らないし食わなきゃ腐る以上の益がないから食っていい」んですよ。例えばコンビニで売られてる肉とか食用に売られてる肉とか、あなたのために出された料理とかです。ええ、ふつうに食べて問題ありません。ただし、肉ばかり食うと結果としては需要を喚起する、ということになるし、健康にいいとも言えないので、これも「ほどほど」ということになるでしょう。せいぜい仏教的努力はそこまでです。

どっちかと言えば、肉よりも酒のほうが問題です。無益な殺生はしてませんが、「正気を破壊する」というのは仏教的には悪です。酒は酩酊を生みますから、認識や正常さが損なわれますね。仏教は素面でも幸せでいる、不幸にならないための宗教ですから、これは仏教的に言えば自己破壊的であり教義に反する自殺行為なのです。

仏教やれと言う気はないんですが、個人的には初期の仏教や仏教オタの上座部のくどくどとうっさい仏教は結構得るもんがあるなと思います。たしかに、大乗仏教のほうが優しいし、ようあれを纏めたなと感心することすらあります。とりあえず、仏教カルトに洗脳されない程度の仏教知識はあったほうがいいですよー。

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