『砂の器』と実験工房
獅子文六のことを少し調べていたら、彼のパリ留学時代は、第一次大戦後で、フランが円に比べて安く(ユーロのはるか前の時代、為念)、日本人が留学しやすい環境が整っていたという話が出てきて、フランスもそうだったのかとちょっと驚いた。
というのも、その時代、つまり第一次大戦後のヴェルサイユ条約の下、ドイツ・マルクが暴落し、日本からの留学がしやすかったという話をどこかで聞き齧った記憶があったからだ。京都学派の精鋭たちが次々とドイツに行き、長期滞在することができた一因はそれだったということも、どこかで耳にしたことがある。
フランスは、戦勝国側だし、そんなことはなかったのだろうと勝手に思い込んでいたのだが、対円ということでは、フランも(マルクほどではなかったと想像するが)安くなっていたのだと知って、へぇーと蒙を啓かれたのだった。
そういえば、時代はずっと下るが、バブル期の円の高騰で(85年のプラザ合意以後特に)、一気に海外の日本人人口が増えたことなども思い出す。
私自身、80年代後半はアメリカでブラブラしていたのだが、MBAを目指して日本の企業から派遣されていたエリート「留学生」たちと、様々な場所で会い、知り合いになった。バブルの崩壊以降、そういう人たちは突然、蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまったけれど。
それはともかく、前回、獅子文六の『コーヒーと恋愛』にそこはかとなく漂うエリート懐疑、あるいは前衛不信の気分に触れた。鶴見俊輔の「一番病」批判にも触れたが、
そのつながりで脈絡もなく思い出したのは、松本清張の『砂の器』のことだ。
この清張の代表作は、1960年から61年に読売新聞に連載され、その後ほどなく単行本化されている。
調べてみて驚いたのだが、獅子文六の『コーヒーと恋愛』は、同じ読売新聞の62年から63年にかけて『可否道』として連載されているので、わずか一年ほどの合間を挟んで、この二作は同じメディアで日の目を見たということになる。
もっとも、多くの『砂の器』ファンにとっては、74年に野村芳太郎監督によって映画化されたヴァージョン(今もネットでいつでも視聴できる)の記憶の方が鮮明なのかもしれない。その後も何度かテレビドラマで映像化されているが、映画版のイメージは、加藤剛、加藤嘉、丹波哲郎などの熱演もあり、圧倒的だった。
かくいう私も、原作の記憶が映画版の記憶によって上書きされていたことに、数年前、原作を再読した時に、気づいた口だ。映画では、ある重要な部分、すなわち主人公の設定が大きく改変されているのだが、そのことをまったく忘れていたのだ。
その改変とは、主人公である音楽家が、原作では前衛音楽の若き旗手であり、「ヌーボー・グループ」という前衛文化集団の中心的な人物だったのに、74年の映画版では、クラッシック界のホープという設定になっていたことだ。
なぜそういうことが起こったのだろう。理由はさまざまだろうが、おそらくその中心には、60年代から70年代にかけての時代背景の変化がある。
端的に言えば、60年前後は、世の中で「前衛」が、まだ生き生きした言葉として日常に流通し、実際に芸術や政治の分野で「前衛」を標榜する活動や人々が時代を先導/扇動していたのに対し、74年には、その「前衛」概念の活力が衰え、青息吐息になりつつあったということなんだと思う。
たとえば、美術評論家の針生一郎は、62年の時点ですでに「前衛に疲れました」という文章を書いているが、当時その「前衛」の中心舞台だった読売アンデパンダンという展覧会は、すったもんだの大騒ぎの挙句に、63年を持って終焉している。
つまり、原作の時代に主人公を前衛の旗手と設定することには、生々しい社会的リアリティがあったけれども、74年にはもうそういう感覚が失われていたのではないか、と、これはかなり大雑把な言い分ではあるけれど、思うのだ。
その言い分を支えるより具体的な傍証は、原作のヌーボー・グループという設定そのものが、おそらくは、50年代後半に活躍した前衛芸術家集団である実験工房をモデルにしているということだ。主人公は、ミュージック・コンクレートなどに通暁した前衛作曲家であり、その周囲には、評論家や演劇関係者や彫刻家などがいる。
詳しいことは省くけれど(wikiなどを参照)、実験工房の中心にいた音楽家は武満徹、湯浅譲二などであり、評論家として秋山邦晴(メンバーではないけれどアドヴァイザー的な役割だった瀧口修造)、造形作家として山口勝弘、福島秀子など、ジャンルを横断して若手の「旗手」たちが集まった集団だった。
主人公のモデルは武満か湯浅か、或いは彼らの合成的なイメージなのか、そこは判然とはしないが、清張が、ヌーボー・グループという集団を発想した時に、この実験工房が脳裏にあったことは、ほぼ間違いないのではないかと思う。
そう思って読み直すと、清張が、実験工房のような新しい文化の「前衛」的な動きに対して、どこか冷ややかな視線を投げかけていたことがひしひしと感じられる。
いうまでもなく、1960年前後とは、戦後民主主義が曲がりなりにも根付き、また近づきつつある東京オリンピックへの高揚感の中で、戦争の記憶がどんどんと上書きされ、集団的記憶喪失が進行していっている時代だ。そんな中、清張は、『砂の器』だけではなく、『ゼロの焦点』などでもわかるように、戦争中あるいは直後の混乱期に刻まれた傷を、暗がりからふたたび明るみに出すことにこだわっていた。
その眼差しが、実験工房のような先進的な「前衛」文化運動を、そういった弁証法的な転倒の素材として見出していたことに、あらためて高度経済成長の戦後日本が抱えていた難しさを感じる(主人公の暗い過去が暴かれていく過程がこの小説の肝になっている)。
そして、その難しさが、一筋縄ではいかないものだったのだろうということは、清張の冷ややかな眼差しが、決して反動的な伝統主義者のそれではないから、なおさらだ。彼は、一貫して「前衛」党を標榜していた共産党を支持していた作家でもあり、ある意味で、「前衛」とはどうあるべきかという問いをめぐる葛藤や分裂が、その眼差しには秘められていたとみるべきなのかもしれない。
そして、その落ち着かない感じは、同じ頃、獅子文六が、別の視点から「前衛」的な文化の動きを、憧れながらも皮肉混じりの眼差しで見つめていたことと接点を持ち得るような感じがするのだ。