第155話:れんげみち:父の死
その日 僕の道を
陽があたたかく照らしていた
春が春らしく輝き始めた
田んぼのあぜ道
れんげが一面に咲いていた
おばあちゃんが乳母車を押し
おじいちゃんが鍬をかつぎ
おやじの引くリヤカーを
おふくろが押し
そうして時が
静かに流れていた
決して楽とは言えず
決して豊かでもなかったが
ただ静かに時は流れ
人のために生きることが当たり前だった
限りない
そして無自覚な善良が
そこにはあった
その生き方はちいさくて
何か別の
何か違う生き方があるような気がしたが
春の日のたんぼ道
遠い記憶の向こう側に
僕はときどき
そのちいささを
ふと思い出す
恐らく僕らは
何かに包まれて
ひっそり生きてきたのだろう
人を傷つけることを
恐れなければならない
道を踏み外すことを
しかたがないと言い訳してはいけない
「まっとうに生きなければおてんとうさまに申し訳がない」
おばあちゃんはそう言った
それはどこからわき上がってくる思いであったか
自由など知らず
恐らく自分の幸福すら考えたことがなかった
そういう生きかた
そういう生き方が何であるのか
問うてはいけないような
ちいさくていとおしい生き方
なにもなさない人生そのものが
当たり前のように輝いていた ・・・
振り向くと
僕の道は
そこからつながっている
れんげが咲くあたたかい道
それは無限に続く道ではない
やがて死に至る限られた道である
無限の自由などあるはずもなく
自由のために踏みにじっていいものもない
だからこそ
やさしくこの道を行こうと思う
ある夜の僕の中の
ちっぽけなつぶやきである
この春、父が永眠した。前年の8月に胆管がんの告知を受けたが、癌は既に末期まで進行しており肝臓を中心に肺やリンパ節へも転移、手術もできない状態にあった。本人には最後まで言わなかったが余命はこの時点で6ヶ月だった。
癌を知った父は最初「治療を受ける必要はない」と言い張ったが、家族や親戚の説得で抗がん剤による治療を受け入れることに同意した。しかし、「延命といっても数週間伸びるかどうかと考えて欲しい」「でも最大限のことをしたい」と医者からは言われた。
担当医からは今後死に至るまでにたどる症状も説明されたが、暗澹たる思いにならざるを得ない内容だった。
ただ、父は年内は比較的普通に過ごした。ずっと入院するのではなく、5・6週間に一度、4日間入院して抗がん剤を打つ治療だったため、家で普通に過ごす時間が多かったし、抗がん剤の副作用も予想以上に小さく、苦しいとか痛いという具体的な症状には比較的悩まされずに済んだ。それはラッキーなことだった。
本来が動いていることが好きな人だったから、畑仕事をしたり、釣りに行ったり、柿を収穫して干し柿を作ったり、草取りから倉庫の整理まで何でもやった。
一緒に畑に出かけたときに「こうやって俺が畑仕事をしていると周りの衆がまだ生きてたかって不思議そうな顔で見るんだ」と冗談を言っていたが、これで本当に数ヶ月の命だろうかと僕らは思ったし、何よりも本人には死はもっともっと先にあることに思えていたに違いない。
そのギャップがかえって切なくもあった。
しかし、順調そうに見えた数ヶ月も、父が自分の死を受け入れていくまでの苦悩は大変だったに違いない。なるべくそういう姿を見せまいと気を遣ってはいたが、「何の希望もなく死に向かってただベッドに横になっている。これは地獄だ」と呟いたことがあった。
僕の顔を見、孫の顔を見て、涙を流したことも幾度となくあった。一番身近なオフクロに対してはわがままも随分言ったようだ。きれいだけでは生きられない。辛かったろうと思う。
一月になって腹水がたまるようになった。まだ元気ではあったが、黄疸も出始め、入退院を繰り返しながら、腹水と胆汁を抜いた。
二月になると体力を落としてしまうということで腹水を抜けなくなり、その圧迫から食欲が落ちた。「とうとう食べられなくなってしまった」と父はがっかりしたが、それでも退院が許されると陽気に食べ、家の空気を楽しんだ。
目も体もまっ黄色で加減によっては緑色に見えることもあったが、そんな体で自分の兄弟を集めて温泉で夜の11時頃まで騒いでみたりもした。
しかし、それが体調のいい時としては殆ど最後だった。肝不全が進行し、胆汁が緑色に変化した。ベッドを離れて立ち上がることもなくなっていった。
三月から緩和病棟に移る。高級ホテルの一室のような洒落た部屋で、父は無邪気に「すごいぞ、ここは」と喜んでいた。
すぐに4日間の退院が許された。病院の配慮による最後の退院であることは明らかだった。父はよく笑い、涙を流しながらもよく喋った。父にも最後であることがわかっていたに違いない。
病院に戻ると、痛み止め、睡眠の薬が強くなり、意識がはっきりした父と会うことはもうなくなった。担当医はこれだけ肝不全が進んだ中で反応が返せることは奇跡に近いと言っていたが、見舞いによると絶え絶えながら「おお雅彦か、頑張れ」などと言ってくれた。風呂に入れてもらい、にこやかな顔を見せたりもした。
しかし、肝不全の壮絶なだるさが本人を襲い、苦しさに暴れたりする状態を見かね、昼間も睡眠薬を使わざるをえなくなった。
父からはもはや何の反応もなくなった。寝顔を見ているとまだまだずっとそのまま寝つづけているようでもあったが、その翌々日、息を引き取った。
今日は大丈夫だから泊まらずに帰ろうと病院をいったん引き上げたのだが、気になった兄貴が再び行ってみると既に危篤だった。
折から、雷が鳴り、激しい雨が、兄貴から連絡を受け病院に向かう車を叩いた。2006年(平成18年)3月28日20時38分のことである。
父について語ろうと思ったのだが、書こうとして、語れるほど父について知らないことをつくづくと思い知らされている。
断片を寄せ集めてみるとこんなふうになるだろうか。
4人の姉を持つ長男として生まれ、農家であった家を継ぐべく育てられた。祖父は高校にも行かせないと言ったが、周囲の強い説得で農業高校に進学。結婚、3人の子を設けたが、32歳の頃、血管がつまり足が壊死する病気で右足を切断。以後、義足を使いながら役場勤めを始める。僕ら子供が経済的に自立すると少し早く退職し、以後は畑仕事をする傍ら、旅行やお寺まわり、写経や彫刻などに精を出した。途中、心筋梗塞で入院、手術もしたが、それも克服し平穏に暮らしている最中の今度の癌の宣告だったわけである。
味気のない概略であるが、この概略でさえ確かに正しいと言う自信がない。ましてその間にどのような思いがあったのかなどということは想像もつかない。父も語らなかったし、僕らも聞くこともなく過ごしてきてしまった。
記憶していることは一緒に過ごした漠然とした父の雰囲気だけである。ただそれが「おやじのせなか」というものかもしれない。
冒頭に「れんげみち」という詩を置いてみたが、僕の中にそれこそ平凡な農家の風景が埋められている。
73歳は、今の世の中では若い死である。死を知りながら生きた数ヶ月は、病苦と生きた人の最後としては苦しすぎる最後だった。しかし、僕らは父とゆっくり話ができ、父について考え、感じることができた貴重な日々を持つことができた。
その父を自分の体のどこかに置いて、これから死ぬまでを自分らしく生きたい。安らかに眠って欲しい。
■土竜のひとりごと:第155話