短編「三度目の掃除機」
台所でジップロックに作り置き野菜を小分けしている母に向かって、
「私今日から彼の家で一緒に住むから」
と宣言した。母はいきなり
「まだ早い!」
と私を叱った。自分は二十歳で結婚した癖に。私は今二十三だ。
母はまるでコンビニ強盗でも捕まえるのかという形相で追い掛けて来たけど、既に荷造りを済ませていた私は玄関を飛び出し、そのまま母を振り切って逃げた。最初の曲がり角で一度だけ後ろを振り返った時、エプロン姿で玄関前に立ち尽くす母親の姿が見えた。やだもう、お玉とジップロック持ったまんまじゃん。
彼の住んでいたマンションで一緒に暮らし始めてそろそろ二ヶ月になる。ここまで大した喧嘩もしないで、どちらかと言えば仲良くやって来たけど、些細なことなら少しずつあった。彼はトイレの蓋をいつも閉め忘れる。座って用足ししてくれるのはありがたかったけど、蓋も忘れないで欲しいって思う。それから洗い上がった食器に、洗い立てで滴ぽたぽたの食器を被せて置かないで欲しいの。折角乾かしたのに、また濡らすってどういうコトってなるでしょう。私だけ?あと、外から帰って来て、先刻まで履いてた靴下リビングで脱ぐのもどうなのって思う。玄関のすぐ横が脱衣所なんだから、そっちで脱いで来てって何度か伝えたんだけど、夜勤明けで返ってくると、うっかりするんだって。どういうコトって、ならない?私だけ?私の方が細かすぎるのかな。
溜め込まないようにと心掛けているけれど、些細な習慣の違いとか、お互いの駄目な部分が、そろそろ目に着くようになる頃合いだった。でも、ここを乗り越えられなければ、将来夫婦にはなれないと思っている私。もやもやは一日以上引きずらないようにしている。
彼も私も外で働いて生活費を稼いでいる。結婚資金を貯める為にも、その方がいいねって二人で話し合った結果だった。私の方は朝早く出勤して夜に帰宅する仕事で、彼はフリーターだ。コンビニの夜勤を長く続けていた。死ぬまでに世界を旅するのが夢だから、いっぱい貯金したいんだって。就業時間が違うから、朝も滅多に会わないし、会えたとしてもお互いにただいま、おかえり、行ってらっしゃい、行ってきますと言うので精一杯だった。殆ど入れ違い。忙しないと思う事もあるけれど、四六時中ずっと一緒にいるのよりも、案外良いのかも知れないと思っている。この程よい距離感が、二人の休みが重なった日を、大切な時間だと思わせてくれる気がするからだ。夜中に働く彼は、だから昼間は殆ど家に居る。
このマンションには、「九時から九時ルール」というものがあった。実家が戸建てでマンション暮らしをしたことが無かった私は、はじめこそ驚いたけど、調べてみると結構どのマンションもそうみたいで、要するに洗濯機や掃除機、音楽も体操も、兎に角大きな音の出そうな行為は、夜の九時から朝の九時まではやってはいけないことになっている。契約書で決められているものじゃないけれど、暗黙のルールなんだって。それでもみんなどうやら守っているし、それなのに自分だけわざわざ破ったら、ここに住み辛くなる。スーパーも銀行もコンビニも近くて便利なここを引っ越すのは勿体ないし、第一面倒な事は嫌いな性分。出来得る限り避けて通りたいと思う人なのだ。
でも朝九時までは掃除機も洗濯機も使えないとなると、早朝に出勤する私には、朝の内に出来る事なんて限られていた。それでも日々時間の許す限り、ルールの許す範囲で家事をこなして来た。
数日前からリビングの床が気になっていた私は、昼間の内に掃除機をかけて欲しいと彼に頼んで仕事へ出掛けた。ところが夜帰宅してみたら、どうやら何も変わった様子がない。
「あれ、ねえ、掃除機かけてくれた?」
「あ、ごめん、忘れてた」
「ええーちゃんと朝言ったのにー」
「ごめんごめん、明日やるよ」
彼は私を宥めるようにそう言って、夜勤のために出掛けていった。自分だったら今すぐやるのに。そう思うと九時九時ルールがもどかしかったけれど、彼も明日にはやると言ったのだし、ここで自分が無理矢理にも掃除機をかけてしまうと、何だか当てつけみたいで印象が悪いと思う。今日は彼を信じようと、私は一旦掃除機の件を保留にする事にした。
翌朝は私の方が始発で出なくちゃならなくて、朝は全然顔を合わせられなかった。けれど夜にちゃんと話したんだから、大丈夫だよねって自分に言い聞かせながら帰宅した。玄関を開けて、思わず微笑した。明かりがついて人の気配がある家に帰るのはやっぱり嬉しいものだ。声を掛けながらリビングに顔を出すと、ソファに彼がいた。それから部屋を見回してみて、寛いだ格好のところ申し訳ないと思いつつも、私は口を開いた。
「ねえ、掃除機かけてくれた?」
何も変わっていないように見えた。気のせいと思いたかったけど、何も変わっていない様に見えた。彼はソファの上で身をがばり起こしたと思ったら、
「忘れてた!」と云った。
「ええ、なんでよ」
「ごめん、ごめん。まじでごめん。明日は本当にちゃんとやるから」
少し軽薄に過ぎるのではと思って、私は笑顔を作れなかった。気まずい空気のまま、夜勤の彼を見送って、しょんぼりした彼の背中に、罪悪感には駆られるし、でも不満も燻るし、あと一つあると思った冷蔵庫のプリンは切らしてるしで、何だか眠れぬ一夜を過ごした。
彼は本当によく忘れる。忘れ物の常習犯なのだ。頼み事も忘れるけど、二人で決めたルールだってよく忘れてしまう。いい加減なのかしら。忘れんぼなのかしら。それとも適当なの?私、そろそろ怒っていいかなあ。思い詰めすぎて、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
翌朝また入れ違いで私は出勤、彼は帰宅。もやもやは拭い切れてなかったけど、もう私は掃除機の話を持ち出さなかった。彼の方も何も言わないで、ただ「いってらっしゃい」と、玄関まで見送りに来てくれた。
悪い人ではないのだ。優しいし、一生懸命働いて、貯金も頑張って、自分の夢と同時に、二人の将来のこともちゃんと考えてくれている。それなのに、こんな些細なことで溜め息零しそうになる私は、不釣り合いな人間なんだろうか。
仕事中も上手くもやもやを拭い去れなくて、私は下を向いて帰宅した。ちょっとらしくない自分が続いて、そろそろ嫌になって来た。
「ただいま」
どうにか顔上げた私の瞳に飛び込んで来たのは、ソファで鷹揚な格好して寛いでいる彼。じゃなくて、奇麗に畳まれた洗濯物。それに何だか、もしかして。
「あの・・」
「おかえり」
「あ、ただいま。えと、洗濯物、畳んでくれたんだ」
「うん」
「あの、もしかして、そうじき―」
かけてくれたの?と云い切る前に、彼は得意気ににやりと歯を零した。入った瞬間に分かったのだ。リビングの床はぴかぴかだった。空気が変わっている。彼はいかにも、別に張り切った訳じゃないけど、これ位普通に出来ますけど。って態度でソファに座ってるけど、やっぱりどこか得意そうで、見過ごせない。
「ありがとう」
少しごにょごにょしたけど、私はちゃんと御礼を口にした。彼は「お待たせしました」と畏まって返した。もやもやが、嘘みたいに奇麗に晴れていった。
夜勤明け、彼がお土産スイーツと称して大量のコンビニ新商品を買って帰った。私の好みを良く知っているから、しっかりツボを押さえてる処にやられる。思わず瞳を輝かせてありがとうと云った私を、彼はまた満足そうに見て笑った。
三度目の正直って言うよね。私の彼はそのタイプなのかしら。何はともあれ、二度ある事は三度あるの方じゃなくて、良かった。
「ねえ、こんなに一度に食べたら太るから」
「ええっ、今凄い喜んでたじゃん」
「うん、嬉しい。でも太るから、時々、一個ずつの方が、実はとっても嬉しいから」
「あはは、そう云う事か!」
彼は遠慮なく笑い声を上げて、これから仕事へ行く私に、気を付けて行って来てねと、温もりを与えてくれた。
その夜、お母さんから「次の週末一度遊びに行ってみてもいいか」って連絡がきた。家を飛び出して以来初めてのメッセージだった。彼に早速相談すると、勿論いいよ、来てもらおうよと、寧ろ私より嬉しそうに張り切り出した。お母さんが聞いたら喜ぶかな、それとも照れるかなあ。何だか私まで嬉しくなった。
二人の未来は、こうやって二人で少しずつ創ってゆくんだね。そんな単純なことを、優しく気付かせて貰った。
おわり
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