「要救助者発見!周囲の安全確認をして救助を開始します!!」
自宅にいるときは近所の病院、または交番。職場なら近所の交番にある。
自分の居る場所から一番近いAED(自動体外式除細動器)の場所を、私は無意識に確認している。
数年前、AEDの使い方を教わりたくて、地域の公民館で開かれる救急救命講習に参加した事がある。救急救命講習と言えば学生時代、心臓マッサージや人工呼吸の方法を教わったものだが、随分昔のことで、人命救助の適切な処置方法も年々変わっている。AEDの普及もその内の一つかと思う。
そもそもAEDとは何か。簡単に言えば心臓を止める機器だ。意識を失った要救助者が心停止の場合、心臓が痙攣を起こしている。この痙攣を完全に止めて救命活動を行うためにAEDを使用する。AEDがあれば、要救助者が心停止状態にあるかどうかも判断してくれる。音声や光で案内されるので、落ち着いて取り組めば誰にでも扱える。
気を付けたい点がある。痙攣を止めるため電気ショックを与えるが、その際要救助者に触れないことだ。例えば膝が触れているだけでも一緒に心臓を止めることになる。くれぐれもご注意を。
それではなぜ私はAEDの扱い方や救急救命を身に着けたいと願ったのか。AEDの存在を知ったからという側面もあった。だが根底には有事には助けられるよりも助ける側でありたいという気概が、二十代から三十代前半の私には今よりいっそう強かったからだ。
当時は妹が里帰り出産をする事があった。赤ん坊は無論幼児が家の中にいることは久しぶりで、ケガや事故の無いように、家中の家具配置や安全点検に余念がなかった。その延長上に、かわいい甥や姪に万が一の事があったとき、家から一番近いAEDの場所を知っていても、使えなければ意味がないと思った。助ける方法はいくら知っていても困ることはない。例えば救急隊員に繋ぐまでの救助措置次第で、要救助者の助かる確率は違うと聞く。自分の血を見るのでさえ苦手な私だが、何故か心意気だけは勇猛で、あらゆる事態の想定だけは逞しい。
「これは是非とも身につけねばならない」
そういうわけで救急救命講習に参加を申し込んだ私は、地域のおじさまおばさまに混ざって、プロの指南に真剣に耳を傾けた。この一回ですべて吸収するぞとの意気込みだった。なにしろ子どもたちの命がかかっている―想像だけは逞しい。
講習を受けてみて実感したこと、学んだことを書き出してみる。
・心臓マッサージではなく胸骨圧迫と呼ぶ。
・マウス・トゥ・マウスには抵抗が強い人も多く、それも気道確保が難しい事もあって無理することはない。今は感染症の問題もある。
・AEDがあれば使うが、事態は一刻を争う。生存率を少しでもあげるべく、とにかく絶え間なく胸骨圧迫を行う事が最重要だ。
また血液の処置についても、過去の事件で実際に起こった事例を参考に、他人の血液を素手で触ってはいけないと教わった。感染症の問題だ。ビニール製の手袋がなくてもビニール袋でもよいから自分の手を覆って処置にあたるべきだそうだ。
これらの処置を迅速かつ正確に行う為にも、周囲との連携が必要不可欠だ。もしも周囲に人がいるなら協力を呼び掛ける。やって欲しい事を指示する。例えば救急車の呼び出し、胸骨圧迫は体力のいる処置だから交代要員が一人でも多い方が良い。他にAEDを探してきてもらう事。指示する者がもしも場所を知っているなら「〇〇にありますから持ってきて下さい」と明確に伝える方がより良い。
一分一秒を争う人命救助。それは突然起こるもので、もしも目の前で発生すれば、驚くだろう。慌てるだろう。だが平時からそんな事態を想定しておく事、その時どう動くのが良いか想像する事、できれば方法を学んでおく事で、結果は変わってくるはずだ。
時は移り生活環境も変わった。今は職場で営業中、お客様の身にもしもの事があったら・・等と想像しながらその場合の従業員の動きをシミュレーションしている。自分の手で何をどこまでできるかわからない。だが助けられる命なら助けたい。日頃から想像だけは逞しい私である。
文・いち
※ちなみにこの救急救命講習に参加した日を財布に保管している参加証で確認すると、2014年2月とあった。思ったより時が経っていて驚いた。
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