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掌編「雨の墓標」

 負けた。

 今日俺に、人生何度目かの負けが付いた。負ける事は幾らでもある。その度に落ち込んでいても何の意味もない、そう分かってはいても、悔しい。敗北の二字を突き付けられるたび、悔しくて仕方がない。
 俺は全力を尽くした。そう納得できるだけの仕事はしたつもりだ。先輩も――今回の裁判は先輩と二人掛かりで挑んだわけだが、先輩も無論のこと、一切隙の無い仕事をした。二人で死力を尽くして戦って、それでも負けたのだ。勝てる見込みがあると挑んだわけではない。仮にそうであったとしても、途中で手を抜くような真似は自分のプライドが許さない。まさに全身全霊で戦って、それで負けた。

 しかも今回は、判決内容に自分たちの言い分が全く聞き入れられていない、あまりにも悔しい負けだった。こちらの正論が公平な場で退けられた。それが悔しくて遣るせなくて、俺はいつまでもやり場のない感情を持ち歩いている。


 祝杯をあげる予定だった夕食の席で、打ちひしがれるようにグラスを持ち上げた。内内に消化する術を身に付けたものか、いつまでも顔から全身から悔しさが滲み出る俺とは違い、悔しいとは言いつつも、先輩の顔からは胸中を察せるようなものは現れていない。これが年の功だろうか。戦って来た場数が違う。俺もできる事なら一刻も早くそうなりたいし、なるべきと思う。
だが悔しい

 あの時あの瞬間、響き渡った裁判官の声が脳裏に蘇る度、判決を聞いた時と同じ鮮度で悔しさが込み上げてくる。

「くそ」

 食事を終えて先輩と別れ、一人街を歩いていた。店から一番近い地下鉄の駅ではなく、あえて少し遠いJRの駅へ向かう事にしたのだ。昼間から降り続く雨がまだ止まず、傘を差さなければならなかったが、それでも歩きたかった。歩いて考えて、何かが覆るわけじゃない。もう何度思い返そうと、ケリの付いた勝負だ。どこかで切り替えなければならない。それに勝負はこれ一つきりではなく、明日になればまた別の仕事を手掛けなければならないのだ。やりかけの事案だってある。しかし、まだ振り返ろうとしている自分がいる。他にできる事はなかったか、何か落ち度は無かったかと、順を追って過去を蒸し返しては、自分の仕事の粗探しをしようとしている。それでも何処かに次へ活かせる事柄はないだろうかとなけなしの収穫を得ようと悪あがきしている。かっこ悪いなあと思う。思わず自嘲の笑みが零れた。点滅していた青色が、パッと赤に変わり、無意識にも足を止めた。


 歩道と車道の間に、大きな水たまりがあった。今は小降りになっているが、少し前までは結構な雨量だったらしい。大股で越えるにしても中々難儀な大きさだ。さてどこが一番越えやすいだろうか・・・そう思いながら車のヘッドライトに照らし出された大きな水たまりに目線を流した。


 雨粒が、いくつも、いくつも、絶えず水たまりへ降り注ぐ。その一粒一粒が、これもみんな律儀に跳ねっ返されてゆく。混じりけなしに、一粒ずつは独立して、垂直に、弾き返されてゆく。雨粒が一定であるように、弾き返される一粒もまた、一定のサイズである。その雨粒が、一瞬だけ、十字架になった。ヘッドライトの明かりが映し出す群れは、輝きを放ちながら、確かに全部十字を切ってゆく。刹那に白い。白く輝いて、見えたと思ったら、もうなくなっている。次から次へと十字架が現れては消え、現れては消えて行く。

 まるでお墓だ

 歩行者の信号が青に変わるまで、ずっと見ていた。

 道路の片隅にできたただの水たまり。そこへ降り続くただの雨。けれど、今日見たものの中で、一番美しかった。


                           おわり

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いち
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