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掌編「傘をささんとする」



 今日も雨が降っていた。

 公民館の敷地内は、紫陽花が見頃となって、雨に打たれるも鮮やかに、紫と眩い桃色の球が咲き乱れている。傘を差してまで外へ出るのはあまり好きではなかったが、月二回の教室の日が重なってしまったのだから、駄々を捏ねても仕方が無いと、私はしとしと降り止まぬ雨を冒して外へ出てきた。
 しかし歩いて十五分、来てよかったと早速思った。茂る濃緑の葉に守られて、絢爛たる紫陽花の見事なこと。思わず傘の下で我を忘れた。花壇の花に自ら足を止めるなど、独りになって以来初めてであった。


「熟年料理教室」。名前は良くない。ちっとも冴えない。だがあと一人集まらなければ教室が開催できずに終わってしまうと、町内の顔見知りに縋りつかれて、自分一人の食事などなに手抜きで構わないというのに、情に流されてうっかり入会の用紙にサインしたのが半年前である。料理など何一つ知らなかった。台所へ立つのはコップに水を注ぐ時くらいのもので、いつだって妻が用意してくれたものを口に運んでおれば良かった。そんな人間がひと月に二回も、エプロン姿で人前に立ち包丁を握る等と、どうして連れ合いに想像出来たろうと滑稽に思う。

 教室の生徒は全部で十三人。公民館主催の教室は、生徒数十五人以上でなければ開けない筈のところ、公民館の人間をなんとか言い包めて十三人で登録に漕ぎ着けたらしい。初めて集った教室の仲間たちを眺めてその事実を聞かされた時、全く諮られたと思った。だがもう妻のエプロンを借りて来て身に着けてしまっていた。簡潔に自己紹介を終えた後であった。若い女の先生に頑張りましょうねと励まされた後であった。

 第一回はコロッケと味噌汁であった。いきなりコロッケは難易度が高かった。別のグループは油に入れる段階で三つに割れているのも目撃した。だがきちんと先生の云う通りにして、レシピにも従順に手を動かすと、総菜屋で買うのよりも真ん丸で美味しそうなコロッケが揚がった。覚えず感動した。加えて味噌汁の作り方を学んだことはなによりであった。あまったコロッケを無事に家まで持ち帰り、上り框に足を掛けた時、もっと早く始めて居れば良かったと思った。
 仏壇で鈴をならして、小皿に載せたコロッケを味見してもらった。


 公民館のエントランスで傘の水を絞り、備え付けの、紺だの黒だのの地味な色が雑多に犇めく中へ無造作に自分のを仲間入りさせる。そこにある凡そ全てがこれから始まる教室の生徒のものであろう。似たような傘が突き立って、これは解散時にもたつきそうであると他人事の様に思う。なにしろ持ち手へ刺繡糸が巻き付けてあるのが自分の傘の目印である。妻の仕業であった。

 梅雨の窓を曇らせながら、今日も料理教室は盛況のうちに終わった。手提鞄の中にはタッパーへ晩のおかずが入っている。今日のお題、鶏肉のトマト煮込みであった。上出来であった。
 刺繍糸の印光る傘を手にエントランスへ出た。差し掛けようとした時、出入り口から右へ逸れた屋根の下へ、若い女性が一人立ち尽くしていた。教室の先生ではなかった。止まぬ空模様を見上げながら、飛び出そうか止そうかと悩みつつある様子である。

 声を掛けようか。
 咄嗟にそう過ぎる。然し恐らく不審であろうと思う。どこまで行くのですか、途中まで入って行きますか。白髪の爺さんにそう問われても気味が悪かろうと思う。不審がらすのは気の毒である。然し雨脚が強い。さてどうしたものか。足が重くなる。腕に掛けた鞄の事は忘れる。コンクリに叩きつける雨の音が鼓膜を打つ。横の気配を憂慮しながら、目前の駐車場へ止まる車の数々と、その後ろへ、敷地内を囲う様に並ぶ紫と桃色を瞳に入れている。

 諦めよう。このご時世だ。私は声を掛けないまま愈々傘をささんとする。私が意を決するのと、女性が地面を蹴り出さんとするのとが、同時になりかけて、互いに思わず立ち止まった。二つの顔が不審げに互いを見た。申し開きの口が動く―

「どちら迄行かれますか」
 踏み出さなかった女性はおずおずと視線を上げながら駐車場を指差した。
「車まで、行こうと思ったんですけど、結構降るから、どうしようって」
「それなら入って行きますか。すぐだけど、あんまり濡れるのも気の毒で」
 女性は小難しい顔をした。よせば良かったと思った。やはり知らぬ顔をして居れば良かった。要らぬ世話を焼いた。だが女性は再びこちらに視線を合わせて来た。
「良ければ車までお借りしてもいいですか。その後持って戻りますから」
 思わず苦笑いを零した。
「それじゃあ意味がないでしょう。帰りは又傘無しですよ」
「あ、そっか」
「こう云っちゃなんだが怪しい者じゃない。私はここで開かれている料理教室の生徒です。唯の傘持ちと思って貰って構いません。けれど確かに不審だから、走っていかれても私は何とも思いません。あなたのお好きなようにして下さればいい。どうしますか」
「―それでは、すみませんがお願いします。あの、ミントグリーンの色の軽自動車まで行きたいのです」
「かしこまりました」
 私は傘を差し向けて、女性と、それから手提鞄の中身を濡らさぬ様に気を付けて、降り頻る六月の空の下へと歩き出した―


 不審な顔を隠さぬ女性は、瞳がぶつかる前にさっと顔を戻すと、勢いを付けて雨空の下へ飛び出していった。足元に弾ける飛沫を見送って、老いた瞼を持ち上げた。鮮やかなる紫陽花。天の恵みを享受して今が盛りである。家へ帰る前に、どれ一つ近くで観賞してみようかと、心の内で、話し掛けていた。

                            おしまい

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