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矢作物語(浄瑠璃)

『矢作物語』(浄瑠璃)

人形浄瑠璃(文楽)において三味線の伴奏で語る義太夫節を今日では「浄瑠璃」と呼ぶ。義太夫節は初代竹本義太夫(1651〜1714)が始めた曲節(節回し)である。義太夫節の詞章も浄瑠璃という。義太夫に優れた詞章を多く提供したのが近松門左衛門(1653〜1724)である。特に「出世景清」(1685)は、義太夫の曲節、近松の詞章を語った最初の作品で、これを境にして以前のものを「古浄瑠璃」という。古浄瑠璃の歴史を辿るのは難しいが、浄瑠璃の名称の元となった作品「矢作物語」(「浄瑠璃姫物語」)に近づくことはできる。

浄瑠璃姫の父は伏見の源中納言兼高といい、三河の国司。母は矢作(愛知県岡崎市)の長者で海道一の遊君である。(すなわち矢作の宿の遊女を代表し、彼女自身も海道一の遊女)。非常に裕福であったが、子供ができなかった。それで鳳来寺の薬師如来に祈願し、産まれたのが浄瑠璃姫である。姫は立派な邸宅に住み、大勢の女房に傅かれ、十四歳になろうとしていた。その頃、鞍馬の牛若(源義経)は金売り吉次に従って東国へ下る途中、矢作の宿で浄瑠璃姫の姿を垣間見て思う。あのような人に一夜でも。夜も更けて姫は女房たちと月見の管弦を催す。外にいる牛若は笛を取り出して合奏する。女房たちは冠者を軽蔑したが姫は同調しない。笛が上手で教養が高いと判断をして牛若を信用するのである。
「なびけや君」
「こも殿は諸事にさかしき人なれば、なびかやば」
春の夜は早くも明け、枕もとに鐘の声が訪れた。二人は名残を惜しむ。
牛若は金売り吉次とともに東国へと下っていった。

「矢作物語」は語り物として浄瑠璃とも呼ばれました。それはいうまでもなく主人公の名前によります。浄瑠璃姫は蓬莱寺本尊薬師如来の申し子です。薬師如来のいるところは、浄瑠璃浄土あるいは浄瑠璃世界といい、浄瑠璃は清らかな瑠璃と書き、姫そのものを象徴しています。阿弥陀如来の西方極楽浄土に対して東方にあるのが薬師如来の浄瑠璃浄土。

もう少しで二月。道には雪が積もっています。「迷いの世界(地球)」で「理想の世界(浄土)」を見上げて歩く。死や悲惨への想像力を通して生を考える。人の不幸のかたちは多様、だけど幸福のかたちはどれも似ているように思います。

『浄瑠璃の 名を懐かしみ み雪降る 春の山辺を 一人行くなり』会津八一

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