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【小説】 ロストマン ①
彼女のどこが好きなのかと問われたら、迷わず「全部」と答える。
皆川康介にとって、真中智美は単純明快な愛情を注ぐパートナーだった。『恋人以上の存在』と言葉にしてしまうのもなにか違っているような。
「康介がもっとしっかりして智美を支えてあげないと、逃げられちゃうよ」
一体誰に言われた言葉だっただろう。似たようなことを様々な人間に言われすぎたせいか、康介にはもう咄嗟にその誰かの顔を思い浮かべることができなくなっていた。男とも女ともつかない声が頭の中にこだまする。
暑い。部屋の中はサウナのように熱気がこもっていた。真夏の昼下がり、もっとも暑くなる時間帯にも関わらず、康介はアパートの寝室のベッドにあぐらをかいて座ったままクーラーも付けずにぼんやりと黄ばんだ壁の小さなシミを眺めて続けていた。
築三十年の2Kの賃貸。都心から離れた国分寺でもその家賃は高い、と思う。そこに康介はほとんどタダ同然で“住まわせて”もらっている立場だった。
智美のもとに転がり込んで一年が経とうとしていた。
夜の七時を少し回った頃、部屋の主が帰宅した。パチリと寝室の明かりがついて、康介は眩しさで目が眩んだ。夜になったことにも気が付かないほどに、“何か”について想いを巡らせていたのだろう。
何かって、一体なんだ?
そんな康介に心底呆れているような大袈裟なため息が聞こえた。
「起きてたんだったら返事くらいしてよね」
康介は昼間と同じ姿勢で、ベッドにあぐらをかいていた。
「あぁ、わりぃ。ちょっと考え事してた」
「進んだの?卒論」
「え?あぁ、割とね」
スーツ姿のままで、ポニーテールを微かに揺らしながら智美は隣室の洋間に向かって踵を返した。そうしてテーブルの上に置かれたノートパソコンのキーボードを軽く指で弾いた。康介はそんな智美の動作を、鈍く光る両目でゆるゆるとただ追い続けていた。
「電源入ってないじゃん。ねぇ、ほんとにちゃんと書いてたの?」
問われた康介は言葉に詰まって何も発することができなかった。
小さな身体を精一杯怒らせた智美が再び寝室へと入ってきて、ベッドの上の彼を睨みつけた。
「あと四ヶ月だよ?四ヶ月しかないんだよ、提出期限まで。ねぇ、こうちゃん。卒業するんだよね?約束したじゃん、卒業するって。八月に入ったら真剣に卒論に取り組むって言ったよ。昨日も、一昨日も、こうちゃん何にもしてないじゃん」
「だから考えてたんだろ。昨日も、一昨日も、こんな感じで」
「アドバイスしたでしょ?考えていても仕方がない時だってあるんだから、とりあえず頭の中に浮かんだことを書き出してみなよって。それだってやってない」
口調が徐々にキツくなってきた智美を、そこでようやく康介は見返した。目と目が合う。
合えば余計に、康介は何も口にすることができなくなってしまった。
結局は何もやっていない。何一つとして。
それを感じるだけで精一杯だった。
「ねぇ、こうちゃん。心配なの。不安なの、わたしは。自分のことだって考えなくちゃいけないのにさ、こうちゃんのことばっかり考えてるの。わかる?それって全部不安だからだよ。いいことなんて少しもない。わかってくれてる?」
嫌というほど、わかっていた。わかっていたからこそ、自分はクーラーも付けずにいる。自己嫌悪に苦しめられてるからこそ、俺はお前に頭も上がらないし、それで。それだから──。
康介の心の中の一本の糸が、細い細い糸がその時プツンと切れた。
そんな音を確かに聞いた。
すると言葉が、スラスラと口をついて出てきた。
「うるさいな、俺の気持ちはどうなるんだよ。智美は安定してんだろ?大学卒業して、無事に就職もできて、しっかり毎日働いてきて。俺は、俺だって必死にもがいてんだ。隣りで不安がられてちゃ集中できないわ。そっか、出て行けってか。留年したダメ彼氏なんて邪魔だよな、ゴミだわな」
その勢いのままベッドから飛び起きた康介は、半袖ハーフパンツの格好で部屋を出て行こうとする。
康介の背中に、鳴き声の混ざった智美の声が弱々しく投げつけられた。
「そんなふうに思わないでよ、こうちゃん──」
けれどその声は康介の背中に行き着く前に、乱暴に閉められた玄関ドアに吸い込まれて消えていった。
見上げた夜空に浮かぶいくつかの星の光は小さくて、まるで自分を見ているようで嫌気がさして、だから康介は舌打ち一つ、ポケットに両手を突っ込んで目指す場所もないまま早足で歩き始めた。
(続く)
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