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私たちが生きる意味|『滅びの前のシャングリラ』

今日、凪良ゆうさんの最新作「滅びの前のシャングリラ」を読んだ。微ネタバレアリ。

昨日、思い立って本屋に行って、でも人がいっぱいいて動悸がして、何も買わずに帰ろうかと思ったけど、せっかく来たのに何も買わないんじゃあ負けた気がして、ふと見つけた本。

そしたら実は今日が発売日で、昨日から店頭に置かれてたみたい。知らない間にフラゲしてたなんて、頑張って買ってよかったと思いながらページを開いた。


今年の6月、流浪の月を読んで気になってた著者の最新作。

1ヶ月後、地球に隕石が落ちてくると知った人たちのストーリーで、5人が主に登場する。それぞれいろいろ抱えながら生きていて、心のどこかで死にたいと思いながらなんとなく生きてたのに、死を目前にしたときに生きててよかったと思う。

人間の終わりが来ることを知った人々は、やはりその運命を前にするととても無力で。どうせみんな死ぬんだからと、法も秩序もなくなる。
人を殺したり、物を盗んだり、流通もストップするから食べ物も足りなくなる。ライフラインも動かなくなるし、テレビだって見れなくなる。

やっぱり所詮、人は死ぬんだ、と。そして死ぬことを目前にすると、散々発展してきた技術も、頑張ってきた仕事も、なんの意味もなさなくなるんだ。本当に人間は、生きているんじゃなくて “生かされているんだなぁ” と思う。

じゃあ何のために生きるんだろう?
何のために頑張るんだろう?
少しでも豊かな暮らしをするため?
後世に何かを残すため?
愛する人を守るため?
夢を叶えるため?
どれも結局は全部無くなるのに?

そんな風に考えてしまった、
途中までは。


最初は生きることに対して無気力だった登場人物たちも、死を目の前にすると、自分が生きてきた意味を見出していく。生きててよかったと思う。ずっと死にたいと思っていたのに、もう少し生きたいとさえ思うようになる。

私が、何のために生きるんだろう?と考えてしまうのは、死というものと遠いところで生きているからなのではないか?私が生きる理由は、私が死を目前にしたとき、答えとなって現れるのかもしれないし、そんなもの死んでもわからないのかもしれない。

でも、敢えて言うなら、「なんのために生きるのか」その答えを見つけるために私たちは生きているのではないか。


生きてると、案外自分が手に持っているものはよく見えない。自分が持っている本当に大切なものが大切なんだと実感できない。どうしても自分が欲しいものばかり見てしまう。どうしたら出世できるか、どうしたらお金がもらえるか、どうしたら恋人ができるか。

でも本当は、人間誰しも自分が大切にしたいものはちゃんと近くにあるのではないか。それが見えてないだけで。

自分がそれを手放すときが来ると実感したとき、自分に死が迫ってると知ったとき、その近くにあるものが大切なんだと、初めて気づく。そうしてそのために生きてきたんだと初めて感じることができるのかもしれない。

私の生きる意味はなんだろう。いつか死を目前にしたときの自分が、納得のいくその答えを見つけることができるように、今日も生きよう。明日も生きよう。1年後も、5年後も、10年後も。

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