写真を画像としてnoteにアップしても、見る画面で見え方は違い、印象は変わる
自分で撮影した写真を、デジタル化して画像として取り込み、それをnoteにアップして行っている。
自分の目があてにならないなと感じたのは、アップしていた記事を見直した時。何日か前にNikon FM-10とPENTAX MEの同じアングル、同じフィルム、同じ絞り、同じシャッタースピードで撮影した画像を並べてアップした。
この2枚の画像をどの端末で見比べてみるかで、印象が変わったり、好みが変わったり。結構揺れ動く。
基本的にnoteを書くのは仕事部屋のMac miniを使う。デスクトップ機なので、外付けのディスプレイになる。ディスプレイはイイヤマの23インチ液晶。
写真アプリで大きく映った画像を見てみると、完全に好みはNikonの方。だから、noteにもその様に書いた。
このnoteに対して、「いいね」をいくつかいただいて、それiPhone Xsで確認して見てみたら、PENTAXの方が良い感じに見えてしまった。
もしかして、他の端末で見てみたら違うかもしれないと思い、ASUSのクロムブックでも開いてみた。そうすると、こちらで見てもPENTAXの方がいい感じに見える。ASUSは2万円もしないパソコンなので、普段使うMacBook系の液晶より質はそんなに良くないのは当たり前。でも、普段ネットサーフィンするくらいなら、十分の性能だったりするからこれで見たりする。
iPadでは、Nikonの方がよく見える。
画像をどの画面で見るかによって、見え方が全然違ってくるということは、至極当たり前といえば当たり前。お金をしっかりと掛けて完全に色のキャリブレーションをして、画面の性能を管理しきっているプロや写真を仕事にしている人は、こんなこと自体を話題にしないのかもしれない。
しかし、一般のアマチュアは、それこそ携帯電話の端末や使っているパソコン、画面がグレアかノングレアかなど、多種多様の端末でそれぞれが楽しむ。
となると、「この画像がいい」と思ってアップしたとしても、受け取り側はそう思わないということは紙にプリントされた写真以上に起こってしまうというのは容易に想像できる。
画像をどんな端末で見るかなんて、発信者側はコントロールできないから。
ましてや、自分の持っている端末でさえこんなに違う。
ということは、noteに画像を上げるとしても、それがどんな写りかどうかを批評しようとしてもできっこないということ。
あくまでも、「画像を楽しむ」という以上のことはできないんだな。
芸術論をぶつわけではないけれど、「写真」はプリント、もしくは印刷されたものと対峙することに自ずとなるのかもしれない。
デジタル画面上の「画像」は、またひとつ、「写真」とは一つ違う表現のジャンルとして成立したのだろう。
新しい技術が生まれてくる中で、その技術を活用する活動に対峙する人の側の意識もまた、アップデートしたり、分類したり、あるがままに受け取ったり、哲学をするのが楽しめたりする。
ひとつ、面白い発見だった。