20210417 iPhone Xsのカメラが作り出した画像から、『撮る』という行為と『カメラ』について考えてみた
今日もクリニック。
外は雨。
こういう日は、モノクロームがいいと感じる。
クリニックへの通院と言えどもせっかく外に出るのだから、モノクロームで撮影したい。
フィルムでもデジカメでも。
ただ、今日は荷物を少なくしたかったので、iPhone以外は持ち出さないと決めた。
だから今日は撮るなら、iPhone。
ビルから出ると、バスがロータリーに停まっている。
そこで、シャッターを押すことにしてみた。
まずは、iPhoneのカメラアプリで。
何も意識せず、ただiPhoneを構えて撮影。
次に、モードをモノクロにして撮影。
撮影したものを見るために写真アプリを開いてみると、一度のシャッターでカラーの画像も残っている。
印象がまるで全然違う。
モノクロはアンダー気味。
駅の看板の露出が丁度で、バスはアンダー。
ところが、カラーはバスに露出がぴったりで、駅の看板はオーバーで飛んでしまっている。
そこで、オブスキュラというカメラアプリを立ち上げて、これもモノクロで撮影してみる。
こちらも、モノクロで撮影したけれどカラーのデータも残っている。
そして、写っているのは、標準で入っているカメラアプリと同じ感じ。
いったい、iPhoneの中で撮影した画像はどんな処理になっているのだろう?
iPhoneで撮影する画像というのは、記録として使う場合はそのまま使ってしまうけれど、何となく「写真」として切り取りたいと思うような撮影をする場合、加工するのが大前提だったりするのだろうか?
まあ、元々モノクロフィルムでプリントするという場合、多くの写真家の作品などは印画紙に焼き付けるときにいろいろなテクニックを使っているわけで、そのままのものという感じではない。
見れるものに手を加えるのが普通の事。
そうしたことから考えれば、デジカメで撮影したものに関しても、画像は加工するのが大前提なのかもしれない。
というか、世の中に出回っている「写真」と言われるものは、ほぼ100%と言っていいくらい手が加えられているはず。
「撮って出し」というのは、ある意味少ないのかもしれない。
あまり、今は言葉としてまとめてアウトプットすることができない領域だけれども、
「そもそもカメラで『撮る』という行為って何なんだろう?」
なんていうことをデジカメやらiPhoneで撮影すると考えてしまう。
フィルムで撮影する場合、フィルムというケミカルな作用が働くことで光が化学的な存在として置き換わる。
プロや写真愛好家以外の自分も含めた一般的な人というのは、写真屋さんにフィルムを出してそこの写真屋さんによって作り出された同時プリントを写真として認識する。
手にしたプリントをお金をかけて「もうちょっとこうして欲しい」「ああしてほしい」ということは大抵しないはず。
自分もしてこなかった。
それをする人というのは、ものすごく写真に詳しくこだわりのある人だと思っていた。
ところが、今はデジタルの世界になり、電気信号としてデジカメが受け止めたものがデータとして記録されている。
そのデータを誰もがコンピュータのソフトを使えばいじることができる世の中になった。
Instagramなどでも「エモい」状態にしたり、フィルムライクにしたり。
フィルムライクな画像を作り出すデジカメだって売られている。
誰でもいじることができる分、作られた感がとても強いように感じるのは、自分だけだろうか?
フィルムライクな画像にしたいのなら、デジカメではなくフィルムで撮影すればいいのになんて思ってしまう。
自分の場合、撮影したものをプリントアウトして飾ることが最近は増えた。
その場合、ディスプレイで見えるものと紙の上にインクで表現されたものとの違いは当然あって当たり前だからと、ほぼ何もいじることなくプリントアウトする。
その方が、自分にとっては瞬間を切り取った感じがとても強いから。
カメラの性能も含めて、今自分が手にしているもので瞬間を閉じ込めたという感覚があるから。
デジカメの画像をいじるのが悪いと思っているわけではないし、否定しているわけでもない。
自分は、カメラも含めて、そのときの自分とそのときの自分の回りものをとどめたいと思っているからこそ、シャッターを切る行為を行なっている。
だから、その時に使っているカメラもとても大切。
色々なカメラを使ってみたいと思うし、自分に合ったカメラはどちらかというとコンパクトカメラという意識になってくるし。
あまり大きなシステムカメラは望まない。
書いているうちに、ちょっとずつ自分が『撮る』行為と、『カメラ』についてどんな事を楽しんでいるのか、少しずつ言語化できているのかな?