古道具とコトバ #2 強盗-不確かなことにワクワクする
現代人が思っている意味とは異なる意味を持つコトバ
現代人としては使ってはいけないコトバ
古道具を読み解くには、コトバを読み解くことが必要だ。
ひとつだけ持論を述べておこう。
ふるいモノに纏わる"ふるいコトバ"に正しい意味や結論を求めるのは無意味だ。
系譜やジャンルを追っていき、ある程度類型化することはできるがそこまでに留まる。
知ろうとするにはまず柔軟に、当時の背景をいちいち考えながら読み解かなくてはいけない。
(ひとつの事象やコトバに普遍的な意味を制定したがる現代日本人には一番苦手な部分だ。)
知ろうとする探究心とは別に、カテゴライズしない(出来ない)という心もちが必要。
"一を以て万を知る"が、絶対に通用しない
それが古物とそれにまつわるコトバたちの習性だ。
1.強盗-がんどう-
以前こちらの記事内でも紹介した強盗提灯、通称強盗-がんどう-
なんでも強盗が使うのに適していたからとのこと
これは江戸期の文献にも記載されている。
だが現代的なメソッドで紐解こうとするとその矛盾に気づくはずだ。
現代の常識で考えうるモノの開発経緯としては
この順が正しいと思われる。
がんどうにあてはめてあこう。
・・・となる、どう考えても無理のあるストーリーだ。
現代的なメソッドで読み解こうとする限界。
そして価値観が異なる部分を発見できる。
当時は(というより日本でマニュファクチャが急速に普及する7,80年ほど前までは)行為や事象、モノに名称がつかないまま開発される、ということがままある。
それら民衆の間で使われていた「名もなきモノ」がどこかの誰かに制定されて初めて名称が生まれる、ことがある。
これは古いモノを読み解く上で知っておかなくてはならない常識だ。
ちなみに画像の-がんどう-は下記リンクにて販売しております。(小声)
2.不確かさを楽しむ
僕は古物についての持論を述べるときに確かにはっきり言い切ることはあまりしない。
冒頭に述べた通り、古いモノとその呼称や伝承について正しさ、確実性を求めるのは無意味だ。
「かもしれない」「だと思われる」etcを僕は多用する。
これは僕なりの誠実さ
僕が語る対象の古道具たちが活躍していた時代は、我々が生まれるより遥か前。
不明確な部分がたくさんあるからだ。
当時本当はどう呼称されていたんだろう。どのように普及したのだろう。使っていた人の身分は?地域は・・・?
それを考えるのが古道具との楽しい向き合い方。
もちろん、僕の記事の中でぐらいカッコつけて断定してしまってもいい。
ただ、"僕個人の意見"を真実として認識してもらうのは僕としても本意ではない。
不誠実に見えるかもしれないが、僕なりの誠実さとして、断定しきらない・煮えきらない態度は続けていくつもりだ。
ふるいモノにまつわる、不確かなコトバたち。
それでも町はまわっていたことを思うと、現代人はコトバに縛られすぎているのかもしれない。
無理にカテゴライズして納得したがるのは現代(日本)人の悪いクセとも思う。
もっと緩やかに、柔軟に、もう少しどうでもよく・・・。
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