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文学の批評理論における「脱構築批評」とは——廣野由美子氏『批評理論入門』を読む
「脱構築批評」は、現代の批評理論の中でももっとも難解なものだという定評がある。しかし、ある明快な作品解釈に出会ったとき、それに説得される一方で、「本当だろうか?}という疑問の声が生じてくる敬虔は、だれにでもあるだろう。それとは衝突する別の解釈の可能性があるような気がしてくるのだ。こういうとき、私たちは衝動的にテクストを脱構築しようとしていると言える。脱構築批評とは、テクストが互いに矛盾した読み方を許すものであること、言い換えるなら、テクストとは論理的に統一されたものではなく、不一致や矛盾を含んだものだということを明らかにするための批評である。アメリカの代表的な脱構築批評家J・ヒリス・ミラーは、「脱構築とは、テクストの構造を分解することではなく、テクストがすでに自らを分解していることを証明することだ」と説明している。つまり、従来の解釈を否定して別の正しい解釈を示すのではなく、テクストが矛盾した解釈を両立させていることを明らかにするのが、脱構築批評の目的なのである。
廣野由美子(ひろの ゆみこ、1958] - )氏は、日本の英文学者・著作家。専門は19世紀イギリス小説。京都大学国際高等教育院 副教育院長、京都大学名誉教授。英文学、イギリス小説を専攻し、著書には『小説読解入門』(中公新書)、『一人称小説とはなにか』(ミネルヴァ書房)、『視線は人を殺すか』(ミネルヴァ書房)など多数ある。
本書『批評理論入門』は、小説とは何かという問題に対して、小説技法と批評理論の両方の解説を通して、小説はいかなるテクニックを使って書かれるのか、またさまざまな批評理論によって、有力な作品分析の方法を解説するものである。この本では19世紀の小説『フランケンシュタイン』に議論を絞って解説される。
『フランケンシュタイン』(Frankenstein)は、イギリスの小説家、メアリー・シェリーが1818年3月11日に匿名で出版したゴシック小説である。原題は『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein: or The Modern Prometheus)。フランケンシュタインは同書の主人公であるスイス人科学者の姓である。多くの映像化作品が作られ、本書を原案とする創作は現在も作り続けられている。
多くの人が誤解しているのは、まずフランケンシュタインというのは怪物の名前ではなく、それを生み出した科学者の名前であるということである。また別の誤解として、これは単なる怪奇小説・恐怖小説ではないということもある。生と死、美と醜、光と闇、善と悪、創造主と被造物など多くのテーマを含む小説であり、さまざまな解釈可能性をはらむ非常に奥深い作品なのである。これを執筆したときメアリー・シェリーは19歳だったというから驚きだ。
小説の読み方には、小説の内へ入ってゆく方法と、小説から外へ出てゆく方法とがある。前者を「内在的」アプローチ、後者を「外在的」アプローチという。内在的アプローチとは、小説の形式や技法、テクストの構造や言語を調べることで、しばしば「形式主義」(formalism)と呼ばれる。それに対して、外在的アプローチは、文学テクストが世界の一部であるということを前提として、文学以外の対象や理念を探求するために文学テクストを利用するもので、これが「批評理論」と呼ばれる。
小説『フランケンシュタイン』は、1970年代以降に、文学批評の動向の変化に伴って、学術的アプローチが盛んになり再び脚光をあびるようになった。従来の文学伝統は、キャノン(正典)として権威付けられた作品によって構成されていた。つまり、一部の特権者である白人男性のエリート集団を中心とする作品である。しかし近年、女性、同性愛者、有色人種、労働者階級など周縁化されてきた者たちによる視点が重視されるようになり、キャノンの見直しと拡大の方向へと向かうようになっている。『フランケンシュタイン』についても、フェミニズム批評の立場から、この小説を文学的伝統のなかに組み入れようとする試みが顕著である。1990年代以降には、階級や人種など、それまで見逃されてきた観点からも見直されてきている。そうした批評理論による読み解きの中で、『フランケンシュタイン』が再び注目を集めている。
批評理論には、伝統的批評(道徳的批評、伝記的批評)、ジャンル批評(ロマン主義文学、ゴシック小説、リアリズム小説、サイエンス・フィクション)、読者反応批評、脱構築批評、精神分析批評(フロイト的解釈、ユング的解釈、神話批評、ラカン的解釈)、フェミニズム批評、ジェンダー批評、マルクス主義批評、文化批評、ポストコロニアル批評、新歴史主義、文体論的批評、透明な批評などさまざまなものがある。
例えば、脱構築批評を取り上げてみよう。脱構築批評とは冒頭の引用に掲げたように、テクストが互いに矛盾した読み方を許すものであり、不一致や矛盾を含んだものだということを明らかにするための批評である。従来の形式主義による読み解きでは、文学作品は内部で完結した統一体とされ、それを構成している複雑な要素の絡み合いのなかから、中心の意味が見出されるという考え方を基本としている。しかし、脱構築批評は、逆にテクストの「異種混淆性」や「意味の決定不可能性」を見出そうとする。
脱構築(deconstruction)という造語をつくったのは、フランスの哲学者ジャック・デリダである。脱構築批評家たちがデリダの哲学の影響を受けていることは言うまでもない。デリダは西洋文化においては二項対立的な思考パターンが支配的であることに注目した。たとえば、白/黒、男/女、原因/結果、はじめ/終わり、明/暗、意味/無意味といった対概念である。デリダはさらに、それらがたんに対をなしているだけではなく、一方が優れていて他方が劣っているとされたり、一方が肯定的に、他方が否定的に捉えられたりする傾向があり、そこに階層が含まれていることを指摘した。デリダは、この二項対立(binary opposition)の境界を消滅させることを目指し、対立に含まれている階層に疑問を突きつけることによって、西洋的論理を批判しようとしたのである。したがって、脱構築批評は、テクストの二項対立的要素に着目し、その階層の転覆や解体を試みるという方法がしばしばとられる。
脱構築批評の観点からすると、小説『フランケンシュタイン』では、善と悪、潔白と有罪などの二項対立も曖昧である。フランケンシュタインは、人類の利益に寄与したいという善意から、生命の秘密を探求したのだが、それは、殺人者を世に放つという災厄の元凶になる。また、そのために無実の罪を着せられたジャスティーヌを見殺しにすることにとよって、フランケンシュタインはいっそう罪を深める。真実と虚偽、潔白と有罪、救済と呵責などの二項対立が空洞化しているのである。『フランケンシュタイン』は、二項対立的な要素をふんだんに盛り込んだ西洋的な作品であるにもかかわらず、そのほとんどの境界が消滅してゆくさまを描いており、西洋的イデオロギーを脱構築した作品とも読める。
脱構築批評の主眼は、作品には中心的な意味がないということを証明することにある。『フランケンシュタイン』においても、怪物をフランケンシュタインの自我の一部と見る解釈と、怪物を疎外された他者と見る解釈とは、互いに衝突し相容れない。その他、フェミニズム批評では、女性の象徴としての怪物が家父長制を破壊し、マルクス主義批評では労働者階級の代表としての怪物が資本主義を転覆させようとする話としても読まれる。しかし、これらの解釈は、それぞれ小説から引き出された「意味」であるが、互いに脱構築し合って中心的意味を占めることはないのである。