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「差延(différance)という鍵語には、墓場の、死の臭いがする」——井筒俊彦がデリダに読み取ったもの

「Différanceのaは耳には聞えない。音もなく、ひっそりと、墓場のように、それはある。」(Ⅷ-92)

そうなのだ。デリダのこの鍵語には、墓場の、死の臭いがするのだ。正確には、それは二重になった死の臭いである。一つには、全てはエクリチュールという痕跡、生成の動向から切り離されて一旦死んだもの、この意味での死骸(むくろ)に端を発する。何かが何かとして限定されて姿を現わすためには、それは死として骸として成らねばならなのだ。世界は、何もの/ごとかとして姿を現わすそのたびごとに、実は死んでいる(失われている)のである)(しばしば私たちは、そのことに気付かないのだが)。だが、ここにはもう一つの死の臭いが、絡み付いている。それは、このようにしてそのたびごとに失われる世界の現出に、その媒体として常に付き添い・それを目撃している当の者=私自身の死だ。
言うまでもなく、この私も世界の現出のそのたびごとに死んでいるだが、そこに次の・新たな現出が(なぜか)訪れるかぎりで、その内に死の亀裂を孕みながらも曲りなりに同一者たりえている。いや、正確に言い直そう。同一者であるかのように見える。だが、その新たな現出がもはや二度と訪れないことが、いつあってもおかしくないのだ。このことは、世界の現出=存在に根拠がない(無)、つまり「たまたま」そうであることの一つの当然の帰結に過ぎない。このようにして私は——世界のそのたびごとの現出を目撃する当の者は——、おのれ自身の死に直面することを通じて、「無」を垣間見る。「無」という事態が可能であることに、自身の身を以って曝し出されると言ってもよい。かくしてdifféranceのaは、墓場を通して自らの死へ、更にはそれを通して「無」へと通じているのである。おのれの死の底に垣間見られた「無」が、「彼方」が、デリダに終わりなき彷徨を余儀なくさせたのだ。井筒が先のように書くとき、彼はこの事態に向き合う必要があった。

斎藤慶典『「東洋」哲学の根本問題——あるいは井筒俊彦』講談社, 2018. p.160-161.

本書『「東洋」哲学の根本問題——あるいは井筒俊彦』は、現象学が専門の斎藤慶典(さいとう よしみち, 1957 -)氏が、井筒俊彦の東洋哲学思想を読み解いた一冊である。斎藤氏の専門は、フッサールやレヴィナスといった現象学・現代西洋哲学なのだが、彼が井筒俊彦を読み解くと、現象学・存在論との接点があり、またユダヤとギリシャの狭間で彷徨し続けたデリダの思想にも繋がることになる。

井筒俊彦(いづつ としひこ, 1914 - 1993)の東洋哲学研究は、インド・中国・日本はもちろん、中近東やロシア、東南アジアにも視野を拡げている彼の研究はほぼ全世界的かつ全時代的規模の哲学・思想を従えているのであり、そこで精錬されて取り出された哲学的思惟の構造は、人類が数千年の長きにわたって思考してきたことの一つの基本形を示していると斎藤氏は言う。井筒俊彦の過去記事も参照のこと(「共時性において成立する一つの構造体として『コーラン』を読むこと——井筒俊彦『『コーラン』を読む』より)。

ジャック・デリダ(1930 - 2004)はかつてフランス領だったアルジェリア出身のユダヤ系フランス人哲学者で、フッサール現象学から出発して、ハイデガーやニーチェに影響を受けつつ、「脱構築(déconstruction)」「差延(différance)」といった鍵語を駆使したポスト構造主義の代表者の一人である。彼の思想の中核には「書かれた文字=エクリチュール(éctiture)」に対する一貫した関心がある。デリダの見るところ、私たちの現実は全てこの「エクリチュール」から発する。すなわち、この世界に物質化されて痕跡を残す傷跡のようなものが記号として何もの/ごとかを指し示すことで、全てが立ち現われるのである。この傷跡をどのように「読む」か、その痕跡の中にどのような力が働き・せめぎ合っているのかを徹底して追跡することがデリダのテーマであった。

デリダ哲学の鍵語の一つ「差延(différance)」は、「差異化する」と「延期する」という二つの意味をもつ動詞différerを現在分詞化し(différant)、その上でそれを鍵語として名詞化したものだが、この操作を経ることで現在分詞に固有のaが姿を現わす。それが「différance」におけるaである(通常のフランス語にこのような語は存在しない)。そのようにして姿を現わしたaは「差異(違い)」を意味する通常のフランス語「différence」と発音上は全く変わらず(したがって、それは聴こえない)、視覚上もわずか一文字の違いなので、ほとんど目立たない。だが、この書かれた文字(エクリチュール)の次元では、目を凝らせば違いに気づくことができる。

この「a」はいったい何を示そうとしているのか。斎藤氏いわく、一つは言葉をその生成の現場に差し戻すことで、その指示関係を流動化し、絶えず新たな・別の意味=指示へと言葉を解放するジェスチャーだということである。そうした「遊動性」「浮動性」の背後に、そのような「遊動性」をはらむ「空」=「存在」の無根拠性という「無」が口を開けていたのだが、この「a」は、世界(と、それを「地」として支え・包括する「空」)の底にそのようにして口を開けたままの「無」の深淵にも通じているという。

そしてデリダのこのdifféranceという鍵語には、墓場の、死の臭いがする、と斎藤氏は指摘する。一つは、エクリチュールという痕跡、生成の動向から切り離されて一旦死んだもの、この意味での死骸に端を発する。世界は、何もの/ごとかとして姿を現わすそのたびごとに、実は死んでいるのである。ここにはもう一つの死も絡んでいるという。それは、そのたびごとに現われては失われる世界の現出を目撃している当事者としての私自身の死である。

世界のそのたびごとの現出と喪失と同時に、この私もそのたびごとに死んでいる。にもかかわらず、私は同一者たりえている。これは実に不思議なことである。このことは、世界の現出=存在には根拠がないということ、無根拠であるということ、つまり「たまたま」そうであることの一つの当然の帰結であるという。このようにして私は、世界のそのたびごとの現出を目撃しながら、「無」を垣間見ている。différanceのaは、墓場を通して自らの死へ、さらにはそれを通して「無」へと通じているのである。デリダが終わりなき彷徨を余儀なくされた事態とは、このdifféranceのaの向こうに垣間見える「無」を追い求めていたからだと、井筒は考えていた。そして、井筒はこのデリダのエクリチュールにおける「根源的解読不可能性」の思想と、イスラーム・東洋の存在と無(あるいは死)の思想とをつなげて考えていったのである。


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