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カフカをどう読むか——エーコの『開かれた作品』より

すぐれて〈開かれた〉作品として、すぐさまカフカの作品のことを考えることができる。つまり、裁判、城、待機、判決、病気、変身、拷問は、その直接的な字義通りの意味で理解されるべきではないのである。だが中世の寓意的構成とは違い、ここにおいて重層する意味は、一義的に付与されてはいないし、いかなる百科事典によって保証されているのでも、いかなる世界秩序に基づいているのでもない。カフカ的象徴についての、実存主義的、神学的、臨床医学的、精神分析的な多様な解釈は、作品の可能性のほんの一部を尽くすにすぎない。つまり、事実上、作品は曖昧なものとして、無尽蔵の開かれたものであり続けるのである。

ウンベルト・エーコ『開かれた作品(新・新装版)』青土社, 2011. p.45-46

イタリアの哲学者・作家のウンベルト・エーコが1962年に著した本が『開かれた作品』である。芸術作品は基本的に曖昧なメッセージであり多様な意味内容を持つという考えから出発したエーコは、作品に対する受け手の関与の積極性を理論化し、受け手との享受関係の中で実現される「開かれた作品」のあり方を多様なジャンルに基づいて考察した。思考のモデルとなったジャンルは、詩、文学、音楽、視覚芸術、テレビ放映など多岐に渡り、カフカ以外にも、マラルメ、ジョイス、ブーレーズ、ブレヒトらの作品が参照されている。(以下の解説より:https://bijutsutecho.com/artwiki/26

詩学(ポイエーシス)に関する書籍であり、エーコの哲学者・思想家としての本領が発揮された文章である。詩学という言葉は、アリストテレスの著作に由来する。そのギリシャ語原題「ペリ・ポイエーティケース」は、直訳すると「創作術について」、意訳すると「詩作の技術について」という意味になる。

古代ギリシャでは、広く「作ること(創作・作成)」全般を意味する「ポイエーシス」という語が、やがて専ら「詩作」を、さらには「詩」そのものを意味する語にもなった(英語のpoetry等の語源)。古代ギリシャにおいては、韻文で文芸作品(ムーシケー)を作り、それに節をつけて歌ったり、劇として演じるといった営みが当たり前だったので、「詩」という概念が(文芸・歌謡・演劇を含む)今日よりもはるかに広い範囲に適用されていたのである。(Wikipediaより)

カフカ作品をどう読めば良いのか、その直接的な意味の分かりにくさ、明確な結末や教訓の汲み取りにくさ、端的に言えば「難解さ」ゆえに、カフカ作品はさまざまな作家や思想家たちを刺激するようである。エーコの「開かれた作品」という概念を理解すると、カフカをどう読めばいいかの手がかりになる気がする。カフカ作品は何かを暗示しているのでも、寓意的な意味を持つのでもない。おそらくカフカ自身も何を書いているのか分かっていなかったに違いない。それは永遠に「開かれた」ままの作品なのであり、読み手の積極的な関与を前提としており、作者とテキストと読み手がその都度、創造的に構成的に関与しあって意味を形成してく作品なのである。


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