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両義的なもの・相矛盾するものをうけいれる「あいまいな日本人」——ニスベット『木を見る西洋人 森を見る東洋人』を読む

イェイツが中国人を描いたことは正解だったと思われる。なぜなら、相反する感情を同時に経験することは、西洋人よりも東洋人によくあることだからである。カイピン・ペンと共同研究者は、日本人とアメリカ人の実験参加者にさまざまな顔を見せて、それらがどのような感情を表現しているかを尋ねた。
アメリカ人にとっては、それらの顔は喜んでいるか悲しんでいるか、怒っているか怯えているかのいずれかだった。ポジティブな感情が見出された顔からは、ネガティブな感情は見出されなかった。(西洋の)常識から考えても、また心理学者が長年集めてきたデータから考えても、それ以外の反応など考えられなかった。しかし、日本人の参加者は「それ以外の反応」を見せた。日本人は、同じひとつの顔のなかにポジティブな感情とネガティブな感情の両方があると答えることが非常に多かった。

リチャード・E・ニスベット『木を見る西洋人 森を見る東洋人:思考の違いはいかにして生まれるか』ダイヤモンド社, 2004. p.209.

リチャード・E・ニスベット(Richard E. Nisbett, 1941 - )はアメリカの社会心理学者。彼はミシガン大学セオドア・M・ニューカムの社会心理学の教授であり、ミシガン大学アナーバー校の文化と認知プログラムの共同ディレクターである。 専門は、社会的認知、文化、社会階級、および加齢。著書は『Culture of Honor(名誉の文化)』はじめ、多数ある。

本書『木を見る西洋人 森を見る東洋人(原題:The Geography of Thought: How Asians and Westerners Think Differently…and Why)』は、東洋人と西洋人の心や思考のかたちが文化によっていかに違うか、その違いはなぜ生じるのかを科学的に解明するものである。古代ギリシア人と古代中国の哲学の違い、思考の違いが生まれた社会的背景、心理学的研究や社会学的研究からみえてくる西洋的な自己と東洋的な自己の違い、世界は名詞の集まりか動詞の集まりかといった言語の違いなど、西洋人からは一見理解しにくい東洋人の思考の背景にあるものについて考察した書籍である。

本書に対する批判としては西洋人と東洋人を単純に分けすぎているということがある。また「東洋人」の代表として中国人、韓国人、日本人が多く挙げられている。一部にインド人の研究なども挙げられているものの、「東洋人」とは誰を代表するものなのか、逆に「西洋人」とは誰かといった前提についてはあまり検討されていない。根拠の多くは心理学的実験の結果であり、その研究・分析手法自体が要素還元主義的であり、それこそが「西洋的」な思考を前提にしているという批判もありえるだろう。

とはいえ、私たち日本人にとっても興味深い心理学的研究の結果がいくつか紹介されていることは注目に値する。例えば「相反する感情」をどのように捉えるかといった問題である。ニスベットは日本人とアメリカ人に、さまざまな人の表情(顔)を見せて、それらがどのような感情を表現しているかという実験をおこなったカイピン・ペンらの研究を紹介している(Peng K, Keltner D, Morikawa S. Culture and Judgment of Facial Expression. Unpublished manuscript, University of California, Berkeley, 2002)。アメリカ人にとってはそれらの顔は喜んでいるか悲しんでいるか、怒っているか怯えているかのいずれかだったのに比べて、日本人の参加者は異なる反応を見せた。日本人は、同じひとつの顔のなかにポジティブな感情とネガティブな感情の両方があると答えることが非常に多かったという。

論理的には矛盾するものを東洋人は抵抗を感じることなく受け入れることができるというのは、例えば「禅」の考え方にも通じるところがあるだろう。禅では公案という非論理的な問題が修行の一貫として与えられる。例えば白隠禅師の「隻手音声(せきしゅのおんじょう)」の公案などが有名である。「両手を打つと音がなるが、片手の音はどんなものか」といったものだ。こうした非論理的な問題、相矛盾する現象のうちに、東洋人は世界の真理をみてきたと言えるかもしれない。

大江健三郎のノーベル文学賞受賞講演は「あいまいな日本のわたし(Japan, The Ambiguous, and Myeself)」であった。この「あいまいな」というのは「vague(漠然とした)」ではなく「ambiguous(両義的な)」の英語の翻訳である。大江がこの講演で言いたかったことは日本人である自分が、西洋的な文化と東洋的な文化という相矛盾するものを受け入れながら文学者としての自分があり、そのような西洋人にとっては一見不可解な、矛盾を受け入れる存在としてわたしがあるということである。そもそも言語において主語を強調しない日本人にとっては、世界を認識しそれを言語で表現するときに、多義的で両義的なものを内包することは極めて自然である。そのような観点からしても、ニスベットのさまざまな心理学的実験の結果はそれほど驚くべきものではない。


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