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個人は人類とつながることによって単なる動物であることから救われる——米山優氏『つながりの哲学的思考』を読む

上述の実証主義的な三位一体という概念でもわかるように、コント自身はカトリシズムを大いに評価しつつも、既成の宗教としてのカトリックの神とつながろうとはしませんでした。また自然とのつながりに没入するわけでもありませんでした。かといって人間も動物にすぎないというレベルでの相互のつながりに安住するのでもなければ、現存する人間どうしが直接にそのままつながるわけでもありませんでした。そのつながりは、たとえ現存する人間どうしであっても、いま述べたような「浄化」を念頭に置きながら人間の到達しうる高いところを見ることによって成立するつながりだったのです。
私たちは人類によって人間になるのであり、それまでは動物なのであるとアランは言いました(『裁かれた戦争』)。個人は人類とつながることによって単なる動物であることから救われると言ってもいいでしょう。このように個人と人類との関係は、私たちが普通に考えている個人間のつながりと根底から異なっているのです。

米山優『つながりの哲学的思考——自分の頭で考えるためのレッスン』筑摩書房, 2022. p.254-255.

米山優( よねやま まさる , 1952 - )氏は日本の哲学者である。東京大学大学院人文科学研究科単位取得退学。博士(学術)。名古屋大学大学院情報学研究科教授などを歴任。名古屋大学名誉教授。専門は、情報学、哲学。おもな著書に、『モナドロジーの美学』(名古屋大学出版会)、『情報学の展開』(昭和堂)、『自分で考える本』(NTT出版)、『アラン『定義集』講義』(幻戯書房)などが、訳書にライプニッツ『人間知性新論』(みすず書房)、『ライプニッツ著作集 第Ⅰ期 8・9』(共訳、工作舎)、ピエール・レヴィ『ヴァーチャルとは何か?』(監訳、昭和堂)などがある。

本書『つながりの哲学的思考——自分の頭で考えるためのレッスン』は、社会学者オーギュスト・コントの実証主義哲学や、哲学者ピエール・レヴィの思想を鍵として、哲学することとは何か、また現代を生きるための「つながり」の思想について解説した本である。

「哲学とは何か」という大命題に対して、米山氏は「善く生きることに深く関わる知恵」であると答える。哲学(philosphy)とはもともと「知恵を愛すること」という意味であるが、それを踏まえると「哲学する」ということはすなわち「善く生きることに深く関わる知恵を愛すること」となる。「気がついたらこの世にいた。それなら善く生きてみるか」というような決断と哲学的思考は結びつくのだという。

それは本書のキーワード〈つながり〉とも関係がある。伝統的な哲学的考察が「可能性」と「実在性」との対に囚われていたように、いろいろな場面で〈つながり〉そのものが固定化してしまったり、それを流動化(活性化)できたり、要するにつながりが閉じたり開いたりする考察であるという。

この〈つながり〉についての議論で重要な示唆を与える哲学的立場が、オーギュスト・コントの実証主義であると米山氏は述べる。種々の学問がその理論構築に関して、まずは「神学的段階」から始まり、「形而上学的段階」を介して、「実証的段階」へと移っていくという「三段階の法則」をたどる。その上で、6つの基礎的な実証的諸科学の守備範囲と相互連関を示す「諸科学の階層の法則」という考えをもって、諸学問の実証的階層を設定したことと、〈つながり〉の思考が密接に関連しているという。コントはフランス革命後の無政府的で混乱しきった社会を眼の前にして、実証主義哲学を基礎に社会の再構築をめざした。つまり、人々のあるべきつながりとしての社会はどのようにしたら構築できるかを考えたわけである。

コントの思想は究極的には、社会において人と人がどのように〈つながり〉を持てるのかという視点に及ぶ。ここにおいて、コントは〈人類教〉という言葉を唱える。宗教の一種と誤解されそうな用語であるが、意味するところはもっと深いものである。それは、神を信じるのではなく、自然に還るのでもなく、また人間どうしが見つめ合うのでもなく、「記念」によって浄化された死者の行列としての「人類」を仰ぎ見て、それを信頼し、それに溶け込むことをめざすものであった。人類教の崇拝の対象は「記念」によって浄化された〈人間以上の人間の集まり〉、すなわち人類である。

コントのいう「人類」とは「私たちを引き上げ、私たちの同情的な傾向が利己的な傾向を支配できるようにするために必要な力を与えてくれる大いなる存在」であった。普通私たちが意味する肉体的な意味でのすべての人間ということではない。人類教という概念を通じてコントは、人類において、人は互いに愛し合い交わる、ということを言いたいのだろうと米山氏はいう。人類は私たちが社会を形成するという営みによってこそ成立しうる存在であり、その存在と現にいま生きている人間とがつながるわけである。それは、個々の人間に閉じてはいないという意味で開いた社会である。家庭や国家などに閉じた社会でもなければ、単なる繰り返しにとどまる動物的な集団でもない。

ここで米山氏は「私たちは人類によって人間になるのであり、それまでは動物なのである」という哲学者アランの言葉を引用する。つまり、個人は人類とつながることによって単なる動物であることから救われる。個人と人類との関係は、私たちが普通に考えている個人間のつながりと根底から異なっているのである。ここでは〈思想の跳躍力〉が必要となる。既存の集団に対する固定的なつながりを緩め、そこから身を引き離し、新たなつながりへと自らを拡げていく思想である。それはまさしく哲学的な思考の力である。過去の偉大な先達に学び、自分たちの社会をより良いものにするための哲学的思考を進めることが、私たちに課せられているのだと米山氏はいう。私たち自身が、善く生きるために。

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