日本人がACPに感じる違和感の正体とは——トニー・ウォルター『いま 死の意味とは』を読む
トニー・ウォルター(Tony Walter, 1948 - )氏は、英国の死生学・社会学の研究者である。バース大学名誉教授。同大学「死と社会センター」元所長。死の社会学を牽引する存在として、死生学者のあいだで最も評価されている。主要著作に、既存の死生学の「死のタブー」言説を問い直す"The Revival of Death"(『死のリバイバル』)、悲嘆の比較文化論"On Bereavement: The Culture of Grief"(『死別について──悲嘆の文化』)、邦訳に『いま死の意味とは』(岩波書店)、『近代世界における死』(法政大学出版局)がある。
本書『いま 死の意味とは』(What Death Means Now: Thinking Critically about Dying and Grieving)(2017年)は、いま、死ぬことや哀悼、死者と生者の関係はどのように変容しつつあるのかについて、「死の社会学」を牽引する研究者ウォルターが、近代的な個人の自律という理想や共同体との関係、専門家の役割、葬儀、遺体の扱い、服喪、さらにSNSとAIの時代の「広がりゆく死」のゆくえなど、新たな死と死別のあり方を批判的に考察する一冊である。
社会が経済的に発展するにつれて、死に方のパターンも変化してきた。感染症にかかって数日で死ぬというパターンは廃れ、自分または家族の癌、認知症、心臓または肺の病気と数年間も生きるというパターンが主流になったのである。この期間のおかげで、新しい「死に方」だけではなく、新しい「生き方」が可能になったとウォルターはいう。このことを「新往生術」(new craft of dying)、あるいは「新しい死生の術」(new craft of living-dying)(死にながら生きるための新しい術)とでも呼べるものが英語圏の国で開発されたという。
20世紀半ば以降、医療倫理と医療実践はパターナリズム的でなくなり、患者の自律を思んじるようになった。この新体制では、とくに人生最終段階に近づくにつれて、患者は十分な情報にもとづいた自律的な選択を行わなければならない。それは死ぬその瞬間まで、私たちが受動的な患者(patients)ではなく、能動的な主体(agents)であることを強要されているのだ、とウォルターはいう。
こうした新往生術、あるいは「良い死に方」のイメージは、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)という医療実践に現れているとウォルターはいう。ここでは、個々人の死にゆく過程での主導権が患者にあり、それは究極的には安楽死など、自らの死に関するあらゆる選択と決定を自律にゆだねるものである。しかし、安楽死という概念は、死にゆく人が家族や医師に従っている地中海や東アジアの社会(日本も含まれるだろう)に伝統的に見られる「良い死に方」の通念とは大きく異なる、とウォルターは指摘する。
研究者のテレサ・マルヤマは、シシリー・ソーンダーズが主導したホスピス運動の源流に、キリスト教の巡礼者概念があると指摘する。つまり「ホスピス」という用語は、中世ヨーロッパの巡礼者のための「ホスピタリティ(おもてなし)」と結びつけて考えられたというわけである。つまり、ホスピス運動や尊厳死・安楽死という西洋的な概念の基盤には、死にゆく人が「巡礼者」になり、贖罪への個人的な道を自律的に歩むという考え方がある。これに比べて、日本では、死にゆく人が医師や家族に世話をされる「赤ん坊」に変容することとして捉えられており、対照的である。日本文化では甘え・依存(dependence)に価値が置かれており、病人や死にゆく人は家族に甘える・依存することで、世話される役に甘んじるべきだとされる価値観をもつ、とウォルターは指摘する。私たち日本人の感覚から言っても、妥当な指摘である。
つまり20世紀になり、西洋的価値観では死にゆく過程を本人が「コントロール」できることが良いとされてきた。自律的に死に方を選択し、自律的にそれを管理するというあり方である。しかし、日本を含む東アジアの社会では、必ずしもそのような価値観には立っていない。むしろ、「赤ん坊」に変容した死にゆく人は、家族に世話されるべきであり、その甘え・依存の状況は、決して悪いものとは捉えられていないというのである。ここにACPを推進しようとするときに私たちが何となく感じている「違和感」の正体があるのではないだろうか。