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迷うこととネガティブ・ケイパビリティ——レベッカ・ソルニット『迷うことについて』を読む

1817年の真冬、詩人ジョン・キーツは友人たちと語らいながら家路をたどっていた。その夜は後世にも記憶されるものとなる。「そうして、わたしの心のなかでいくつもの物事がぴたりと符号してはたと気がついた。偉大な達成、とりわけ文芸の偉業を成し遂げる人間をつくりだしてきた資質、⋯⋯それは消極的能力(ネガティブ・ケイパビリティ)なのだ、つまり、いたずらに事実や合理を追い求めないで、不確実な状況や謎や疑いのうちにとどまっている能力なのだと」。この考え方は、「未詳の土地(テラ・インコグニタ)」と記された古地図の領域のように、さまざまな場面で繰り返し浮かび上がってくる。
「街で道がわからなくなるのは面白くもないありふれたことだろう。必要なのは無知であること、それだけだから」と、二十世紀の哲学者・随想家ヴァルター・ベンヤミンはいう。「しかし、街に迷うこと——ちょうど森で自らを見失うように——には、かなり別種の修練が求められる」。迷うこと、官能にみちた降伏。抱かれて身を委ねること。世界のなかへ紛れてしまうこと。外側の世界がかすれて消えてしまうほどに、その場にすっかり沈み込んでしまうこと。ベンヤミンの言葉に倣えば、迷う、すなわち自らを見失うことはその場に余すところなくすっかり身を置くことであり、すっかり身を置くということは、すなわち不確実性や謎に留まっていられることだ。そして、人は迷ってしまうのではなく、自ら迷う、自らを見失う。それは意識的な選択、選ばれた降伏であって、地理が可能にするひとつの心の状態なのだ。

レベッカ・ソルニット『迷うことについて』左右社, 2019. p.11-12.

レベッカ・ソルニット(Rebecca Solnit , 1961 - )は、アメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコ在住の著作家。環境、政治、芸術など幅広いテーマを取り上げている。著書に『暗闇のなかの希望』、『災害ユートピア』、『説教したがる男たち』など。

本書『迷うことについて』はソルニットの2005年の著書"A Field Guide to Getting Lost"の翻訳である。"Getting Lost"とは、まず文字通りに人間が失われたものとなること、つまりさまざまな具体的、内面的な回路を通って人が迷う、紛れる、失われる、消える、見えなくなることであり、「迷う」といったときに連想される遭難や迷子といった事象はその一部に含まれているにすぎないということを表している。さらに、その主語は必ずしも人ではなく、物や動物たちが失われることについても触れられている。
自分を主語に置きつつ自らを失われたものとする。それを未知と出会うためのひとつの方法、ありうる指針と捉え、ソルニットは自らを通じた壮大な想起の旅へ、自らの内にある未知に触れる旅に出る。そこに現れるのは失踪、消滅、変身への憧れ、危うさ、あるいはそこにある哀切とラディカリズムであり、そして遠さと近さの間に風景とともに見出される時空と奥行きと隔たりである。

迷うことについて、それは古地図の「未詳の土地(テラ・インコグニタ)」を探求するようなことなのであり、また詩人ジョン・キーツが述べた「消極的能力(ネガティブ・ケイパビリティ)」につながるものだとソルニットは言う。キーツが述べたネガティブ・ケイパビリティとは、シェイクスピアのような偉大な創作者が持っていた資質とは、いたずらに事実や合理を追い求めず、不確実な状況や謎や疑いのうちにとどまっている能力のことであった。

またソルニットは哲学者ヴァルター・ベンヤミンの言葉を引用する。街で迷うことに必要なのは無知だけなのであるが、また街で迷うことにはかなり別種の修練が求められる。迷うこと(Getting lost)、すなわち自らを見失うことは、その場に余すところなくすっかり身を置くことであり、すっかり身を置くということは、すなわちネガティブ・ケイパビリティ、あの不確実性や謎や疑いのなかに留まっていられることなのだと。

山中で遭難したとき、遭難者の多くは、地球に書かれた言語(太陽や星からわかる方角、水の流れる向き、野生の自然の読解可能なテキスト)を読む術を知らないか、足をとめて読み取ろうとしない。しかしそこで必要とされるのは、見知らぬ環境で緊張を解き、いたずらなパニックや苦痛を招かず、迷っている状態に自分を馴染ませるというまた別の技術である。つまりそれは、キーツのいうネガティブ・ケイパビリティに近いものであるはずだ。

さまざまな内省と洞察、あるいは人々との対話を踏まえて、ソルニットは「迷子とはおよそ精神の状態なのだ」と理解する。探検家が目指すのは基本的に自分が行ったことのない場所なのであり、彼らは自分たちの正確な居場所を把握していない。それにもかかわらず、多くの者は装備の運用に塾達し、十分な精度で進路を把握していた。自分たちが生き延びることができ、進むべき道が見つかるだろうという楽観的な態度こそ、彼らのもっとも重要なスキルなのであるという。つまり自分が「迷っている」と感じるかどうかは、およそ精神の状態なのであり、これは山奥で足を棒にすることだけでなく、あらゆる抽象的な、あるいは隠喩的な意味での道迷いにも同じことがいえるのではないか。

ならば、いったいどう迷えばいいのか。まったく迷わないのは生きているとはいえないし、迷い方を知らないでいるといつか身を滅ぼす。ゆたかな発見にみちた人生はその隙間に横たわる未詳の土地(テラ・インコグニタ)のどこかにあるはずだ、とソルニットはいう。ソルニットはヴァージニア・ウルフの『灯台へ』の一節を引きながら、「ウルフにとって迷子になることは地理というよりはむしろアイデンティティや激しい欲望にかかわること、名を捨てて誰か別の人になりたい、あるいは自分自身を、他人の目に映る自分を思い出させる首枷を脱ぎ捨ててしまいたいという切実な願い」だったという。

迷った=失われた(ロスト)という言葉には、本当は二つの本質的に異なる意味が潜んでいる、とソルニットはいう。「何かを失う」といえば、知っているものがどこかへいってしまうということだが、「迷う=(自分が)失われる」というときには見知らぬものが顔を出している。つまり後者の意味での「迷う」とは、自分が失われつつも、世界がかつて知っていたものよりも大きなものになっているそこでは、「手放す技法」が肝要なのだと、ソルニットはいう。過去を忘却することはすなわち喪失の感覚を失うことではあるが、いまそこにはない豊かさの記憶を失い、現在を歩むための手がかりをなくすことである。したがって、忘却ではなく「手放す」こと。すべて剥がれ落ちたとき、手のなかには潤沢な喪失がある、とソルニットは述べている。


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