「かなし」がもっていた豊かな感興と日本的美意識——竹内整一『「かなしみ」の哲学—日本精神史の源をさぐる』を読む
竹内整一(たけうち せいいち、1946 - 2023)氏は、日本の倫理学者。鎌倉女子大学教授。東京大学名誉教授。日本倫理学会元会長。専門は、倫理学・日本思想。「はかなさ」「やさしさ」「かなしさ」などの和語をキーワードとして展開する日本文化論・日本思想論で知られる。著書に『日本人は「やさしい」のか - 日本精神史入門』(筑摩書房)、『「はかなさ」と日本人 - 無常の日本精神史』(平凡社)、『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(筑摩書房)、『「かなしみ」の哲学』(日本放送出版協会)などがある。
本書『「かなしみ」の哲学—日本精神史の源をさぐる』は2009年の著書。日本人が「かなしみ」という言葉に託して、歌や物語に慣れ親しんできたこの感情には、どのような世界観が込められているのか。かなしむ「われ」(自分)のなかに、日本的美意識や倫理感覚が生まれる瞬間を見定め、かぎりある人間とかぎりない世界との関係の本質に迫る、日本思想研究の精髄を注ぎ込んだ力作である。
竹内氏は、やまと言葉の「かなし」とは、そのカナが「⋯⋯しかねる」のカネと同根とされる言葉であり、力が及ばずどうしようもない切なさを表す言葉であるという。つまりそれは、自分にとって大切なもの、貴重なものが失われるという、いわゆる「対象喪失」の感情である。自分の思いや願いがかなわず、いやおうなくその有限さ・無力さを感じさせる感情のことである。そのとき、対象喪失の「対象」には、自分自身もふくまれる。自分自身の死もふくめて、大切なあれこれを失わざるをえない「かなしみ」は、やがて人間存在それ自体の、いわば「存在感情」として堆積されてくるという。
現在では主に否定的な感情として使われる「かなし」は、古くはもっと豊かな意味合いをもっていた。例えば、現在では失われた「愛(かな)し」という用法がある。基本は「どうしようもないほど、いとしい、かわいがる」という意味で、ここでもやはり「⋯⋯しかねる」という意味がある。つまり、「何をしても足りないほどかわいがっている」、あるいは「どんなにかわいがって足りない」という及ばなさ・切なさが「愛し」なのであるという。
この「愛し」以外でも、現代では使われていない用法が、「かなし」には多くある。例えば、しみじみとした感興としての「かなし」という意味である。「関心や興味を深くそそられて、感興を催す」こと、つまり、心にしみておもしろいと感じたり、しみじみと心を打たれることである。その他にも、「みごとだ、あっぱれだ」とか、「残念だ、くやしい」という用法など、古代には実に多くの意味で「かなし」は使われていたらしい。
民俗学者の柳田國男は、やまとことばの「かなし」には実に多様な意味合いがあったのに、なぜそれが「悲しい」という意味に限定されてしまったのかを仏教文学にからめて説明している。「ともかくも泣くことをことごとく人間の不幸の表示として、忌み嫌いまたは聴くまいとしたことは、まったくこの「かなしみ」という語の漢訳の誤りがもとであった」(『涕泣史談』)としている。柳田は、もともと「かなし」は、感動がもっとも切実な場合、あるいは、身にしみ通るような「強い感覚」を表す言葉であったのが、徐々にその意味内容が限定されてきたのは、「悲」という漢字を必要とした仏教の文学・説教のためであり、もともとあったさまざまな意味がそぎ落とされてきた結果、sorrow・griefの意味だけになってしまったと指摘している。
「かなし」の類語である「あはれ」について、本居宣長がほぼ似たようなことを指摘している。宣長の、いわゆる「物のあはれ」論である。「物のあはれを知るといひ、知らぬといふけぢめは、たとへばめでたき花を見、さやかなる月にむかひて、あはれと情(こころ)の感(うご)く、すなはちこれ物のあはれを知るなり」(『石上私淑言』)と宣長は書いている。たとえば、みごとに咲いている花、あるいは、清らかな月を見たときに、「ああ、きれいだなあ」「みごとだなあ」と思う、そのように心が動くこと、それが「あはれ」ということだ、というのである。
つまり、うれしいことでも、おかしいことでも、楽しいことでも、ああうれしいなあ、楽しいなあ、と感ずれば、それは「あはれ」であった。当面する事柄のおもむきや風情をよく知って理解し、うれしいことはうれしい、かなしときはかなしいというように、それぞれの場面ごとにしかるべく心動かすことができるのが、「物のあはれを知る」ということなのである。
私たち日本人の心には「かなし」や「あはれ」といった言葉がもつ豊かな意味合いや感興に込められているように、ものや事柄に対して微妙で曖昧なことを深く感じ取る感受性がある。そして、それは本来厭うべきような事態である対象喪失、つまりはかなさや別れ、身近な人の死や自らの死といった、ままならないことに対しても、「かなし」という言葉で豊かな情感を表してきたのである。そこに日本的美意識や倫理感覚が生まれる瞬間がある、と竹内氏は考えている。