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「人間の真景」から眼をそらさなかったソクラテス——小林秀雄『考えるヒント』を読む

では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。
プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても戦うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などという感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。彼は、自己を主張もしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とでも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。

小林秀雄『考えるヒント(新装版)』文春文庫, 文藝春秋, 2004. p.29.

小林 秀雄(こばやし ひでお、1902 - 1983)は、日本の文芸評論家、編集者、作家、美術・古美術収集鑑定家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。

本書『考えるヒント』は1960年前後に雑誌「文藝春秋」に掲載されたエッセイ集であり、1974年に刊行されたものである。冒頭に引用したのは「プラトンの「国家」」と題されたエッセイからの引用。

プラトンの「国家」には有名な「洞窟の比喩」が語られている。ソクラテスはこの比喩をどういう目的で語ったのだろうか。小林秀雄が言うには、「ソクラテスは、或る考えを比喩的に語っているのではない。物事を具体的に考えようとして、おのずから比喩の中に立つのである」という。ソクラテスは、およそ物を考える出発点も終点も「汝自身を知る」ことにあると悟った。プラトンもそうであった。つまり、人間の奇怪さ、愚かさ、惨めさから、一瞬も眼をそらさずに、ものを考えたのである。それこそが「人間の真景」であり、プラトンとソクラテスが物を考えるときに立っていた最も堅固な基盤であった。

ソクラテスは「洞窟の比喩」を語る。ソクラテスは、「人間の真景」をみるために、非常な努力をして背後を振り返り、光源を見たのである。そうすると闇に慣れていた眼がやられるから、どうしても行動がおかしくなる。影の社会で、影に準じて作られた社会のしきたりの中では、彼は胡散臭い人物になる。人間たちは、そんな男は殺せれば殺したいと願うだろう、とソクラテスは言う。つまり、彼は洞窟の比喩を語り終わると、すぐに自分の死を予言するのである。

小林秀雄は言う。もしソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言うだろう。ソクラテスは、この世に本当の意味で教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、あるいはその事に気づかせるあれこれの道しかないことを確信していた、と。

そのように語るソクラテスの自己とは何か。それは、およそ「何ものかに考えさせられる」ということと徹底的に戦うという精神であった、と小林はいう。プラトンによれば、それこそが真の人間の刻印ではないか。ソクラテスは個性的だが、個人主義的ではない。彼は自己主張をしもしなければ、他人を指導しようともしない。どんな人とでも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。そうすると、話し相手は、どうしても自己と向き合い、「人間の真景」と向き合わざるを得なくなる。つまりは、人間の愚かさ、惨めさ、醜さからも眼をそらさないということである。小林は、プラトンの書籍は「人間の最下等の情態から決して眼を離さなかった人の得たものだという事を忘れない方がいいだろう」と言うのである。

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