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生命の本質とは何か——福岡伸一氏『生物と無生物のあいだ』を読む

肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる。(中略)
私はここで、シェーンハイマーの発見した動的な状態(dynamic state)という概念をさらに拡張して、動的平衡という言葉を導入したい。この日本語に対応する英語は、dynamic equilibrium(ダイナミック・イクイリブリアム)である。海辺に立つ砂の城は実体としてそこに存在するのではなく、流れが作り出す効果としてそこにある動的な何かである。私は先にこう書いた。その何かとはすなわち平衡ということである。

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書, 2007. p.163, 167.

福岡伸一氏(1959 - )は、日本の生物学者。京都大学卒、米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、現在、青山学院大学教授・米国ロックフェラー大学客員教授。専攻は分子生物学。『動的平衡』(木楽舎)など、「生命とは何か」を動的平衡論から問い直した著作を数多く発表。ほかに『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)、『できそこないの男たち』(光文社新書)などの著書がある。読書の振興をめざしたセミナーシリーズ「知恵の学校」の主催・校長を務める。

本書『生物と無生物のあいだ』もベストセラーとなっており、ポストコロナ時代にも役立つテーマ、生命の本質や、人間とウイルスの共存は可能かといったことのヒントが散りばめられている。

本書の核となるテーマは「生命の本質とは何か」ということである。つまり、「生命を定義することは可能か」という、今もって完全には答えられていないテーマに挑んだものである。というのも、ワトソンとクリックのDNAの二重らせん構造の発見以来、数多くの生命科学者が「自己を複製するもの」や「代謝を行い自己を維持するもの」といった生命の定義をおこなってきたが、不完全であったと言わざるをえない。それらの定義の限界が如実に表れているのが、ウイルスを生命と定義するかどうかという問題だ。

ウイルスは形態や構造からして、鉱物に限りなく近い。代謝を行わず、形態は幾何学的であり、結晶化できてしまう。しかし、DNAやRNAを有するがゆえに、自己複製は可能なのである。「代謝をおこなうもの」という生命の定義からすれば無生物であるが、「自己複製するもの」という定義からは生命となってしまう。直観的には無生物としたいところである。しかし、この無生物であるはずのウイルスは、私たちの生命と生活を翻弄し、大きな影響を及ぼすことは周知の通りである。ときにウイルスは自らの意志を持っているかのようにふるまうこともある。生物とも無生物とも言いがたい。まさに「生物と無生物のあいだ」に位置するものと言えるだろう。

福岡氏はルドルフ・シェーンハイマーの「身体構成成分の動的な状態(dynamic state of body constituents)」にならって、生命を「動的平衡(dynamic equilibrium)にある流れである」と定義する。シェーンハイマーが発見したこととは、私たちの身体を構成する原子や分子は数ヶ月というかなりの短期間で、すべてが入れ替わっているという事実であった。生命において、合成と分解は同時に絶え間なく続いている。しかも、分解は合成された後に行われるのではなく、時間を「先回り」して分解が行われる。つまり、秩序は守られるために絶え間なく壊されなくてはならないのである。

しかし、この本はめっぽう面白い。読んでいて「生命とは何か」という深遠なテーマを探求していくミステリー小説のように、頁をめくる手が止まらなくなる。それは、単に一流の生命科学者であるだけでなく、「目に見えない何か」を感じ取り、それを巧みな文章で紡ぐことのできる福岡氏の感性と文才の賜物であるとも言える。福岡氏の米国留学時代、ニューヨークからボストンに引っ越した後、彼はボストンの町には何かが欠けていると感じる。その何かとは「振動(バイブレーション)」であった。人びとのさまざまな営みの振動、地下鉄の轟音、店から流れる音楽、人びとの哄笑や怒鳴り声、クラクション、急ブレーキ…。それはボストンにはなく、ニューヨークには存在する本質的な何かである。福岡氏はそうした見えないけれども本質的な何かを感得する力を持っている。そのまなざしは「生命の本質にひそむ何か」にも、慎ましやかにかつ繊細に向けられているからこそ、本書のような洞察が生まれているのである。


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