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ヘーゲルの描いた「主/僕」関係に潜む矛盾——仲正昌樹『ヘーゲルを超えたヘーゲル』を読む
このように、「僕」は「主」が「主体」になるための踏み台として重要な役割を担っているわけだが、よく考えてみると、「僕」の二つの役割の間には矛盾がある。「僕」が、「主」に代わって、「物」の世界との格闘を一身に引き受け、因果法則に強く囚われている一方で、「主」と「精神」的な繫がりを有しているという点である。無論、現実に存在する「僕」には両面性があり、程度問題だ、と言うこともできるが、二つの役割の間に矛盾があり、両立するのが困難であることは否定できない。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770 - 1831)は、ドイツの哲学者である。カント、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並んで、ドイツ観念論を代表する思想家である。18世紀後半から19世紀初頭の時代を生き、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受けてドイツ統一へと向かい始める転換期を歩んだ。
本書『ヘーゲルを越えるヘーゲル』は、哲学者の仲正昌樹氏によるヘーゲル哲学の解説書である。
ヘーゲルが『精神現象学』のなかで展開した「主人と奴隷の弁証法」とは自由と権威の関係についてのきわめて示唆的な議論である。人間が自由で自立的な存在であるためには、他者からの承認が必要である。そこで人々の間で相互承認を求める闘争が生じ、必然的に勝者=主人と敗者=奴隷が生み出され、その結果、奴隷は労働し、主人は享受する。だが奴隷は労働を通して自然を知り、自己を形成することができるが、主人は消費に没頭するだけで労働による自己形成ができない。主人の生活は奴隷に依存するばかりか、奴隷が自由と自立を獲得していくのに対して、主人はそれを喪失していくだけである。そうなると、みずからの意識においては自立していると思っている主人は客観的には自立を喪失しているのであり、逆に奴隷は自立していないという意識のもとで、真理においては自立的なのである。この真理が明らかになるとき、主人と奴隷の立場は入替る、というものである。
この主人/奴隷関係(主/僕関係)が表しているのは、本当の主人と奴隷ということばかりではない。一般的に考えると、自立的に存在しているものと他者依存的に存在しているものとの関係と捉えることができる。それは例えば、親と子、教師と生徒のような関係かもしれないし、さらには人間と物(道具)との関係などに関しても、同じようなことが言える。
現代人はスマートフォンのような道具に頼り切りの生活をしている。例えば旅先でスマートフォンがなくしてしまうと、「終わった」という状態になるかもしれない。それほどに「物」であるスマートフォンに依存している状態である。つまり「主」である私たちが「僕」である道具を使いこなしていると思っているが、実はこのとき、主と僕の関係は逆転しているのではないか。主である人間は、僕である道具がないと生きていけない状態になっており、あたかも道具が人間を操っているような状態に陥っているのである。
さらに主と僕の関係というのは、精神と身体の関係性であるともいえる。身体は「物」としての側面と、精神とのつながりを有するという側面の両面性を持っている。二つの役割には矛盾があり、両立するのが困難であることは否定できない。私たちはどうやって精神と身体の矛盾的な関係を解消したり、さらに新たな段階へと進むことができるのだろうか。
主である精神が僕である身体に依存している限りは、この矛盾的関係は解消できない。むしろ、ヘーゲルによれば「僕」である身体が「労働」を通して、自己の欲望を抑制しながら、自立的な存在へと自己形成していくことでそれが達成される。いわば「僕の主体化」というような過程である。ヘーゲルは「労働」によって能動性を獲得した「僕」が、自らに対して「否定的作用を及ぼす異質なもの」を「否定」することになる、と述べる。ここにも「自己否定」によって、主と僕の関係が逆転していき、矛盾をはらむ関係が新たな段階へと至るということが示唆されている。