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哲学に本当の問題はあるか、それともそれは言語のパズルに過ぎないのか——1946年10月25日に起きたポパーとウィトゲンシュタインの「対決」

ポパーは1967年に、自分の学問的な遍歴をつづった自伝『果てしなき探求』を出版し、そこでもこの「対決」についてふれている。自分は、ほんとうの哲学の問題だと信じる問題をいくつか提起した。だが、ウィトゲンシュタインはあっさりとしりぞけた。そして「自分の主張を強調したいとき、指揮者がタクトをふるう感じ」でいらいらと火かき棒をふりまわしていたという。論争の途中で、道徳の地位がテーマになった。ウィトゲンシュタインは、道徳的な規則の実例をあげよとポパーにせまった。「わたしはこうこたえた——ゲストの講師を火かき棒でおどさないこと。するとウィトゲンシュタインは激怒して火かき棒をなげすて、たたきつけるようにドアをしめて部屋をでていってしまった」。

デヴィッド・エドモンズ/ジョン・エーディナウ『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』筑摩書房, 2016. p.13.

サー・カール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper、1902 - 1994)は、オーストリア出身のイギリスの哲学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。科学が科学であるための基準として反証可能性を提起した。批判的合理主義に立脚した科学哲学及び科学的方法の研究の他、社会主義や全体主義を批判する『開かれた社会とその敵』を著すなど社会哲学や政治哲学も展開した。

ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889 - 1951)は、オーストリア・ウィーン出身の哲学者。イギリス・ケンブリッジ大学教授となり、イギリス国籍を得た。以後の言語哲学、分析哲学、科学哲学に強い影響を与えた。

「火かき棒事件」として知られるその出来事は、1946年10月25日、金曜の晩、ケンブリッジ大学のモラル・サイエンス・クラブ定例会で起こったことである。この夜のゲスト講演者はカール・ポパーであった。「哲学の諸問題はあるか」というテーマで講演したのだが、そのときの議長がウィトゲンシュタインだった。そこにはバートランド・ラッセルの姿もあった。本書『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』は、その晩に何が起きたのかを、二人の評伝と哲学的思想、そして時代的背景を描きながら、解き明かしていくノンフィクションである。

ラッセル、ウィトゲンシュタイン、ポパーという三人の大思想家が一堂に会したのは、この晩が最初で最後である。詳細な事実は意見が分かれるが、その晩起きたことは「哲学の問題とは何か」について、ウィトゲンシュタインとポパーの間にはげしい応酬があったということである。哲学にはほんとうの「問題」があるとポパーは主張し、それは「謎かけ(パズル)」にすぎないとウィトゲンシュタインは応じた。二人の「対決」は、すぐに伝説となっていった。

ウィトゲンシュタインもポパーも、私たちが文明や科学や文化の基本的な問題に取り組むありかたに、深い影響をあたえた思想家である。例えば、私たちは何を知っているといえるのか、私たちはどのようにして知識を深めることができるのか、といった問題である。ポパーがウィトゲンシュタインを、哲学における究極の「敵」と考えていたのは確かである。この物語は、二人の哲学者の生涯を左右し、二人をともにケンブリッジに招きよせることになったある時代の、波乱にみちた悲劇の歴史を映しだす「窓」のような出来事なのである。

この晩に議論の中心となったのは哲学におけるもっとも基本的な問題、すなわち「哲学の目的とはなにか」ということだった。その焦点は、言語の重要性だった。

哲学の問題を分析するにあたって、論理学の技術を厳密にもちいることを初めてとなえたのおはバートランド・ラッセルである。ラッセルは1910年から13年にかけて、ホワイトヘッドとの共著で『プリンキピア・マテマティカ』全三巻を出版。彼らがここで編み出した思考の技術は、言語研究の分野にもちこまれた。さらに形而上学の永遠の問題、すなわち存在と知識と真理の性質を考えることにつかわれた。これが、哲学としてほんとうに重要な意味をもったのである。

ウィトゲンシュタインはラッセルの考えを当初は継承していた。この頃のウィトゲンシュタインの考えでは、概念を言語学的に厳密に調べることは、それ自体に価値があることだった。一方、ポパーにとってはそうではなかった。言語分析はきわめて役に立つにせよ、本当に重要なものである哲学の現実の「問題」を検討するための装置にすぎなかったのである。

前期のウィトゲンシュタインの思想は、彼の金字塔的著書『論理哲学論考』に表現されている。しかし後期のウィトゲンシュタインの思想は、それを放棄して、まったく新しい考察方法を進めていく。ラッセルは前期と後期のウィトゲンシュタインをこう名づけた。ウィトゲンシュタインⅠとウィトゲンシュタインⅡ。
ウィトゲンシュタインⅠの計画の核心は、言語と思考と世界を結びつけることだった。特に彼は意味の画像理論を示した。「世界」と「命題」の関係は、「現実の事故」と「おもちゃの自動車や人形」の関係と似ているという着想である。

しかしウィトゲンシュタインⅡになると、言語を〈絵〉とみる比喩にかえて、言語を〈道具〉とみる比喩が登場するある言葉の意味を知りたければ、その言葉が何を示しているかを探るのでなく、実際にどんなふうに使われているかを調べるべきだと考えるようになったのである。使われ方を調べると、その背景にただ一つの同じ構造が存在するようなことはないとわかる。また、多くの単語には、一つではなく複数の使い道がある。そして、それぞれは必ずしも同じ成分を共有しているわけではない。実例として、ウィトゲンシュタインは「ゲーム」という言葉を挙げている。ゲームにはさまざまなものがあるが、これらのゲームすべてに共通するものは「ない」。「ゲーム」の本質のようなものはないのである。

ウィトゲンシュタインはこれを、概念の「家族的類似性」と呼んだ。「ゲーム」がゲームと呼ばれるのは、すべてを貫く共通の特徴があるからではなく、類似性や共通性がずれながら重なっているためである。そして概念が安定したものになるのは、まさにこうした類似性の交差による。
言語は規則にしたがう。言語は本質として公共的なものである。言語は私たちの行為に、そして「生活の形式に」埋め込まれている。そして規則は解釈を必要とする。ウィトゲンシュタインはこの洞察によって、哲学の数百年の歴史を覆し、のちの哲学者たちを解放した。哲学はもはや、岩盤のような確実性を懸命に探しもとめなくてすむようになったのである。

それでは、ウィトゲンシュタインにとって哲学の目的は何だったのだろうか。それは、人が自ら作り上げた混乱から、人を解き放つことであった。ウィトゲンシュタインⅡは、これらの問いを考察しながら、哲学者たちが愚かしいあやまちをおかしていると考えた。私たちは言語の魔術にあらがってたたかうべきである。そのためには、普段の暮らしで使う言葉、すなわち日常言語を常に思い出す必要がある。だから哲学の問いとは「問題(プロブレム)」というより、「謎(パズル)」なのである問いを解きほぐすということは、ラッセルやウィトゲンシュタインⅠが信じたように、まだ見出されない、隠された論理を発掘することではない。すでに存在していたもの、つまり言語が実際にどう使われているかを思い出すことにすぎない、と。哲学の目的の一つは、潜在的に無意味であるものを、はっきり無意味なものとして示すことにある、とポパーと対決した当時のウィトゲンシュタイン(=ウィトゲンシュタインⅡ)は考えるようになっていたのである。

「火かき棒事件」の晩、ポパーはこうしたウィトゲンシュタインの変化を知らなかった。ポパーが想定していた「敵」は、ウィトゲンシュタインⅠだったのである。とはいえ、ポパーが問題にしようとしたウィトゲンシュタインⅠのある面は、ウィトゲンシュタインⅡにとっても中心的な問題であった。ポパーが反対したのは、言語を強調しすぎるということだったからである。
ポパーは言語への関心を「眼鏡を拭くこと」に例えている。まともな哲学者にとって、眼鏡を拭く意味は一つしかない。それは、眼鏡をきれいにすれば、世界がもっとはっきりと見えるようになるということである。

ウィトゲンシュタインⅡの主張によれば、日常言語は完璧である。私たちの哲学的な悩みは、単なるパズルのようなもので、言語学的痙攣にすぎない。しかし、ポパーにとって哲学の問題は「パズル」でもなければ、虚構でもなく、現実の確実に存在する問題だったのである。ポパーからみて現実の問題は、私たちがどう支配されるか、社会がどう構成されるかということである。これは帰納法や無限概念におとらず、哲学者が取り組むにふさわしい問題だろう。実際、1946年当時、それがかつてないほど差し迫った問題になっていたのは明らかである。ポパーがウィトゲンシュタインを嫌った理由の一つはそこにある。現実世界の焦点課題、少なくとも哲学者が役に立ち、特別な貢献ができるはずのテーマに、ウィトゲンシュタインは関心をもたないようにみえた。そのことにポパーは軽蔑の念を抱いたのだった。

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