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ウィトゲンシュタインの『哲学探究』における懐疑的パラドックスと懐疑的解決——クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』を読む

ウィトゲンシュタインのアプローチの基本構造は、手短に言えば、次のように二段構えで表現され得る。まず第一に規則という概念に関して、ある問題、あるいはヒューム的言語を用いれば「懐疑的パラドックス」が提示される。そして第二にこれに続いて、この問題について、「懐疑的解決」とヒュームなら言ったであろうものが、提示される。この懐疑的パラドックスとそれの懐疑的解決の両方の哲学的意義が最も無視されがちであり、かつ、ウィトゲンシュタインの基本的アプローチが最も信じ難く思われる、二つの場合がある。その一つは加法の規則のような、数学における規則の概念の場合であり、他の一つは、感覚に関する、そしてまた他の内的状態に関する、我々自身の内的経験について、我々が語る場合である。

ソール・A・クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス——規則・私的言語・他人の心』黒崎宏訳, ちくま学芸文庫, ちくま書房, 2022. p.18.

ソール・アーロン・クリプキ (Saul Aaron Kripke、1940 - 2022)は、アメリカの哲学者、論理学者。ニューヨーク市立大学大学院センター教授、プリンストン大学名誉教授。ネブラスカ州オマハ生まれ。ユダヤ人。

本書『ウィトゲンシュタインのパラドックス:規則・私的言語・他人の心(Wittgenstein on Rules and Private Language)』は1982年に刊行された著書の翻訳である。この本はある講演の論考をもとに執筆されているもので、その講演は、1976年3月にカナダのロンドンにおいて行われた「ウィトゲンシュタイン会議」の最終日に発表された。このクリプキの講演は、ウィトゲンシュタイン研究者達の間に大きな波紋を投げかけた。そのクリプキが投じた一石とはどのようなものであったか。

それは、ウィトゲンシュタインの後期の主著『哲学探究(独: Philosophische Untersuchungen、英: Philosophical Investigations)』に関するものである。この書籍はその巨大な影響力にもかかわらず、その全体を統一的に把握することが極めて困難であることで有名である。クリプキは『哲学探究』(以下、『探求』)における中心部分が、懐疑的問題(懐疑的パラドックス)とそれに対する懐疑的解決と言われるものを与えている部分であると主張する

懐疑的問題、あるいは懐疑的パラドックスとは何か。それについてウィトゲンシュタインは『探求』の中で次のように述べている。

我々のパラドックスはこうであった。即ち、規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから。

『哲学探究』第201節

これが加法(足し算)のような数学的規則についても当てはまると述べていることがウィトゲンシュタインの驚くべき主張なのである。どういうことか。例えば、2、4、6、8、▢、という短い数列が与えられたとき、▢に来るのは「10」であると我々は結論づける。そのとき、2nという規則を我々は読み取っている。しかし、数学と哲学に精通している人は、▢に当てはまる数字には無限の規則が妥当すると考える。つまり、「そのような唯一つ妥当する数は存在しない」と考えるのである。この例の核心は、有限個の事例からそれに妥当する唯一つの規則を読み取ることは不可能である、ということであり、これは「規則読み取りの非一意性」と言える。

同様に、私たちが帰納法によって、▢の答えを出すのは、有限個の事例でもって把握したに過ぎない。例えば、2nの計算を1000までしかやったことのない人が、nがとてつもない大きな数字において初めて計算する場合を考えてみよう。そのとき、2nの答えがどうなるかは分からないのである。なぜなら、それはその人が初めておこなう計算だからである。つまり、我々は基本的な規則を、有限個の事例でもって把握したに過ぎず、その基本的な法則は、我々とは異なった仕方で把握されることも可能なのである。これは「規則把握の非一意性」と呼ぶことができる。

またこのとき、掛け算の規則が最も基本的な規則であるということもできない。掛け算には例えば「繰り上げる」という操作をしなくてはならないが、この繰り上げの規則は、掛け算の規則よりも基本的である。また掛け算の基本的な規則は、例えば繰り上げの規則よりも「九九の規則」の方がより基本的であろう。このとき、九九の規則を説明するためには、例えばおはじきを長方形に並べて、その全体の数を「数える」ということが必要になる。つまり「カウントの規則」が、この場合の最も基本的な規則となる。そして、ここにおいて可能なことは、その規則を有限個の事例によって説明すること、しかも繰り返し繰り返し説明し、かつ相手にも実際に数えさせ、もし間違えれば直してやることのみである。そして実は、この場面で行われていることは、説明であるよりはむしろ「訓練」なのであり、そこからある規則をカウントの規則として把握することが要求されている。しかし、それは一意的には不可能なのである。

これらを「規則把握の懐疑論」と呼ぶことにする。これが成り立つとすれば、2nの計算をするとき、n=501であるとき、2n=1002としても、その計算の正しさには、実は何の根拠もない、あるいは何の必然性もないということになる。ここにおける必然性のなさは、帰納法における必然性のなさと全く同じなのである。かくして、ここに数学における必然性が経験的知識における規則性のレベルにまで引き下げられたのである。

ウィトゲンシュタインがいう「規則は行為の仕方を決定できない」というパラドックス、つまり「規則把握の懐疑論」は、それではどのようにして「解決」されるのであろうか。現実的な場面において、それでも私たちは、規則2nにおいて、501番目の数を1002というように計算している。しかし、現実に行うこの計算は、実は闇雲な計算なのであり、いわば「暗黒の中における跳躍」なのである。現実には、1002という答えを出す計算の正しさを我々の誰も疑わないし、最も懐疑的な数学基礎論の研究者といえども疑うことはないだろう。そうであるとすれば、ここにおいて正しいとか正しくないということが、元来は問題にならないのである。正しくない、ということが問題にならない以上、正しい、ということも本当は問題にならないからである。したがって、懐疑的パラドックスは、常識に反しているという意味で、一見パラドックスに見えるだけなのである。現実には「規則は行為の仕方を決定できない」ということをそのまま認めて何の不都合もない。そして、この事実を見てとれば、パラドックスはパラドックスではなくなるのである。すなわち、パラドックスは「解消する」のである。このことを、クリプキは「懐疑的解決」と呼んでいる

「懐疑的問題」と言えば、ヒュームの因果律批判が有名である。ヒュームは事象間の必然的結合の存在を疑い、因果関係を、必然的結合によってではなく、恒常的連接によって説明したのである。しかし、そのヒュームの懐疑論は経験的知識の範囲内に限られていた。しかし、ウィトゲンシュタインの懐疑論は、経験的知識の範囲を超えて、ヒュームがごうも疑わなかった論理や数学にまで及んでいる。ウィトゲンシュタインは、ヒュームの懐疑論を、なお一層徹底させ、行き着くところまで行き着かせたわけである。ウィトゲンシュタインは、数学においてさえも必然的結合の存在を疑い、代わりに恒常的連接を持ってきたわけである。ウィトゲンシュタインの見ていた世界とは、物的現象はもちろんのこと、心的現象から行為までも含めて、すべてを一貫して、一般には法則や規則でもって結合されていると考えるところを、恒常的連接で考える、ということであった。このような世界の帰結はどのようになるのであろうか。そこでは、事象に関する一切の説明が不可能になるということであり、そこで可能なことは、ただ記述と予測のみなのである、と訳者の黒崎宏氏は述べている。


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