反証可能性と訂正可能性——東浩紀さんの『訂正する力』を読む
東浩紀(あずま ひろき、1971 -)さんは、日本の批評家、哲学者、小説家。株式会社ゲンロン創業者および取締役、合同会社シラス元代表取締役。学位は博士(学術)(東京大学・1999年)。哲学、表象文化論を専攻。現代思想の研究のほか、サブカルチャーに積極的に発言、小説も執筆している。著書に『動物化するポストモダン』、『ゲンロン0ー観光客の哲学』『一般意志2.0』『ゆるく考える』『訂正可能性の哲学』など。
本書は今注目を集める東さんの「訂正可能性の哲学」を解説する新書である。現代日本にはなぜ「訂正可能性」が必要なのか。いったい「訂正する力」とは何なのか。
簡単に言うとそれは「リセットする」ことと「ぶれない」ことの間でバランスを取る力だと東さんは説明する。日本人は変化=訂正を嫌う文化がある。政治家は謝らない(ちょうど昨日、政治とカネの問題で自民党の某大物幹事長が引退を表明したが、会見でもまったく謝る姿勢は見られなかった)。官僚も間違いを認めない。いちど決めた計画は変更しない。しかし変化を求めるときに、訂正ではなく「リセット」を求める。日本人が訂正を嫌うことの例として、例えば「ぶれない」という姿勢が評価されることが挙げられる。また、ひろゆき氏の論破ブームも同じ文脈だ。ひろゆき氏がどんなに反論されても「ぶれず」に、論破しつづける。しかし、ひろゆき氏に魅力があるのは、その論理性というよりも、彼の独特のしゃべり方や表情にあるのではないかと東氏は喝破する。
日本が良い方向に変わるためには、トップダウンによる派手な改革(リセット)ではなく、ひとりひとりがそれぞれの現場で現場を少しずつ変えていくような地道な努力だろう。その地道な努力にも「哲学」が必要だ。小さな変革を後押しにするためには、それまでに蓄積を安易に否定するのではなく、むしろ過去を「再解釈」し、現在に生き返らせるような柔軟な思想が必要だ。その「哲学」が「訂正可能性の哲学」であり、「訂正する力」だ、と東さんは主張する。
東さんの考えは、ちょうど保守主義と左派のバランスをとるということにも対応している。保守主義とは過去の伝統や価値を守り、変化するためにはドラスティックな変革ではなく、過去の蓄積の上に修正をおこなっていこうという考え方だ。しかしこの「修正」と、東さんの「訂正」は似て非なるものなので混同してはいけない。「修正」は、自分たちの主張を変えずに都合の良いところだけ「修正」するという考え方(その最たる例が「歴史修正主義」)につながってしまうからだ。一方、左派は過去との断絶を厭わずに、革命やリセットによって社会を変えようとする。しかしそれでは、それまでの蓄積を安易に否定してしまうことになる。そのバランスをとるのが「訂正する力」だというのだ。
そして、それは自然科学と人文科学との違いとも対応している、という観点が面白い。自然科学の原理としてよく例に出されるのが、ポパーの「反証可能性」である。カール・ポパーは、ある命題が科学的であるかどうかは、反証可能性の有無で決まると考えていた。例えば「神はいる」という命題は、正しいかもしれないし誤っているかもしれないけれど、そもそもテストすることができず、したがって反証もできないので、科学的な主張ではないと考えるのである。ポパーはこれによって、科学と非科学と分けたわけである。そして、自然科学の世界では、いちど反証された理論は打ち捨てられていく。だから学生が学ぶときには最新の教科書だけが必要で、過去の著作は不要なわけである。
それに比べて、人文学の原理は異なる。それは訂正の学問だからだ。どんなに過去の哲学や著作であれ、それは打ち捨てられてはおらず、その過去の蓄積の上に「訂正」を積み重ねて、今の哲学がある。だから過去の哲学も学ぶ必要があるというわけだ。
本書では、訂正可能性の哲学を裏打ちする哲学として、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」や、ミハイル・バフチンの「ポリフォニーの哲学」(対話の哲学)などが挙げられている。また、山本七平の「空気の研究」なども参照される。読んでいて、実に面白く、分かりやすく、そして時事的な話題が豊富で(ジャニーズの性加害問題や、ひろゆき氏の論破ブームなど)、現代の日本人に突き刺さる内容となっている。