見出し画像

日が落ちてから走る

今日もランニングをした。

毎日、近くのランニングコースに歩く度に「これを書こう!」と思うことがある。

けれども、家に帰ったら忘れてたり、めんどくさくなって書いていない。もう1か月以上経つだろうか。

それは、「夜に走ること」だ。

なぜ夜に走るのかというと、恥ずかしいから。

私の意識的にはまだ若いと思っているが、そんな人が少しの距離で「ゼーゼー」いいながら走っているのを見られたくない。

そんなネガティブな理由で夜に走っているのだが、これもポジティブに考えられる理由がある。

以前、ネット記事でこんなことを読んだ。

「なぜランナーは人混みの中を走るのか」

通行人からすると、人混みの中を走るランナーは迷惑でしかない。ぶつかったら危ないし、不快になる。

しかし、ランナーから見ると「この人は走っている人だ」という認識を受けることが大切になる。

「走っている人」という認識を受けたら、それに適った立ち振舞いをしなければいけないと思い込む。

例えば、YouTubeの勉強ライブを見ながら勉強するのも一緒だ。

スマートフォンから見張られているような感覚になる。加えて、スマホを触りにくくなる効果もあるように思う。スマホをいじりたくとも、勉強ライブを流しているから触りにくい。

これは河野玄斗も言っている。

彼は東大在学中に司法試験に合格し、その後医師国家試験にも合格している天才だ。

ひと昔前まで、天才は勉強しなくても何でもできると思っていたが、全然そんなことはなかった。

勉強していないのではなく、勉強することを全く苦に思わないのだと。そんな彼は12時間程度の勉強ライブをよく開催している。

切り抜きで見たのだが、勉強をライブ配信することで、「視聴者から見られている」という意識を持って取り組めるそうだ。これは「サボれない」と思い込ませる効果がある。

1週間ほど前、『自分で選んでいるつもり』という本を読んだ。

この本で「見つめる目」の効果が説明されている。

それはどういう効果なのか。

たとえば、食堂の返却口や自転車の駐輪場に「ゴミを捨ててからトレーを返却」「違法駐輪禁止!」などの注意書きがある場合、一緒に目のある写真やイラストが貼ってあると、ルールを守りやすくなるという効果だ。

これは、誰かの目線があるとその場において社会的にいいことをしやすくなる効果があるとされている。

これを読んでランニングや勉強の話と同じだなと感じた。

はじめの話に戻ると、「なぜこれがポジティブな理由につながるのか」。

それは、「周りからの視線」という、自分以外の力を借りずとも走り続けられているからだ。

どちらにしても、やっていることに変わりはない。

しかし、「誰かが見てるからやらないと、、、」は理由としては後ろ向きだ。自分からやっている感が少し薄れる。

あくまでも気持ちの問題ではある。

しかし、「自分の意志でここまで続けているんだ」という積み重ねは、たとえ誰からも受け入れられなかったとしても、自分を認められる根拠になる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?