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「すべて」は本当にすべて?
銭湯に行きました。
普段は行きません。気分や疲れたときに入ります。と言っても、年に1回あるかどうか。
いまだに原因不明ですが、大人になってからすぐにのぼせてしまいます。
けれども、「せっかく来たのだから…」という金銭的・機会的な面から、すべてのお風呂に入らないと損しているように感じます。
完璧主義と言いますか、決めたことはやらないと気が済まない性格です。決めると言っても直感が多いですが。
考えて決めたことも重要ですが、決めるまでが大変で、決めたあとは自分の敷いたレールに運ばれるがままです。
ですが、私は機械的に進むのが、少し嫌だなと感じます。
もちろんレールに運ばれると言っても、途中でレールから外れたり、実は断線してた、みたいなこともあり一筋縄では行かないこともありますが、まあつまらないなと感じることが多いです。
考えて決めたことは、ぐうの音も出ないことが余計に機械らしさを出しているのかもしれません。
あることを成し遂げるために工程を割り振っていた結果、こうならざるを得なかった。けれども、こなすにはキツすぎる。人間にとって全く優しくないよね?だけど、これじゃないと達成できない、みたいな状況。誰にでも一度は経験があるんじゃないでしょうか。
こうした完璧主義的な考え方は、銭湯に行ったときにも現れます。
とにかくすべてのお風呂に入らないと、モヤモヤ感が残る。ですが、本当にすべてに入らないと満足できないのかと。
結論から言うと、すべて入ったわけではなく、水風呂には入りませんでした。
水風呂といえば、サウナ。そう、私はサウナには全く興味がありません。
「整う」という感覚もいまいち分かりません。友達に誘われて、サウナから水風呂の流れを何度か経験したことがありますが、全く整う感覚が分かりませんでした。友達は、どこか心あらず、キマッてる様子でしたが…。
ということで、私としては、ぜんぶお風呂に入った気になっていますが、あくまでも私が入りたいすべてのお風呂であって、現実に存在するすべてのお風呂ではありませんでした。
他のことで考えても、この視野狭窄には陥りやすいのかなと。
たとえば先ほどの「論理的に詰めて、解決する手段はこれしかないんだ!」という例もそうです。
これって無意識に、自分がやりにくそうなこと、多分合わないだろうなってことを除外した上で考えがちです。
全く他人のことは言えませんが、「可能性はすべて試した」「やれることはやった」と思い込んでいる節があります。
かといって、これに気づくことができるのは、終わってずいぶん経ってから、「あー、あのときは抜けてたけど、こんな考え方もあった」とハッとした瞬間にです。それはあとの祭りです。
エネルギーはだいぶ使いますが、「自分には合わないだろう」と、バッサリと、それも無意識的に切り捨てたアイデアも一度言葉にして、メモするなり、見える形で残しておいた方が、あとあとになって実はそのアイデアが必要なピースだった、ということもあるかもしれません。
P.S.
「あるかもしれません」は、ほぼほぼ起こらないのが、通説ですが、考えることをやめられないのが私です。