ホルヘ・ルイス・ボルヘス『夢の本』
<夢を見る人間はこのすべてを、神がその広大無辺な永遠から宇宙の変転の一切を見るごとく、一目で見てしまいます。―講演集「七つの夜」第2夜「悪夢」より>
アルゼンチンの、というより20世紀文学を代表する作家のひとりであるホルヘ・ルイス・ボルヘスによる古今東西の夢のアンソロジーです。
『ギルガメシュ叙事詩』から始まる最初のうちは聖書やギリシア神話を出典とした挿話が続きますが、次第に配列は自由になり、ボルヘス自身の創作も数編散りばめられているので、アンソロジーではあるものの、ボルヘスその人の短編集を読んでいるような感覚に襲われることもしばしばです。
ボルヘスの愛読者なら承知のとおり、「夢」はボルヘスにとって重要なテーマ。同じく重要なテーマであった「鏡」、「無限」、「迷宮」と並べてみるとボルヘスが「夢」のどこに魅力を感じていたのかが見えてきます。現実を反映しながら別の次元のイメージを映し出す、合わせ鏡に映る像のごとくイメージのなかにまたイメージが果てしなく入り込む、現実と非現実との境があいまいとなり迷宮のごとくさまよう・・・「夢」には「鏡」「無限」「迷宮」の要素がすべて入り込んでいるのです。
ボルヘスにとって現実と夢の関係は一方通行ではなくインタラクティブなものでした。現実が夢に影響を及ぼし、夢もまた現実に影響を及ぼす。そのことを端的に示しているのが夢に見たことが現実となって実現する「予知夢」でしょう。本書に聖書の預言者の夢が多く収められているのはそのためと思われます。また、現実と夢とがインタラクティブになっている例として、こうした逸話も収録されています。
【ピランデッリアーナ】
ある婦人が一連の夢でその恋人を見る。最初は嫉妬に満ちた悪夢。次は相手を愛していることに気づいた夜の夢。最後の夢では、恋人はダイヤの首飾りをプレゼントしてくれようとする。しかし、見知らぬ手が(それは農園経営で大金持ちになった前の恋人のものなのだが)首飾りを掠め取ってしまう。恋人は嫉妬のあまり逆上し婦人を絞殺する。彼女が目を醒ますと、女中がダイヤの首飾りの入った小箱を手渡す。夢の中に出てきた首飾りである。その時恋人がやってきて、困ったことにいつも売られてしまうので、首飾りを買ってあげることができないと告げる。そして、何か他のものを贈るわけにはいくまいかと尋ねる。
また、夢と夢がインタラクティブに関係しあう例として、荘子の有名な「胡蝶の夢」が取り上げられ、夢の中でまた同じ夢を無限に見続ける例として「紅楼夢」からの逸話が取り上げられるなど、中国の古典からの出典も多く、ボルヘスの幅広い教養がうかがいしれます。
惜しむらくはさすがのボルヘスといえど日本の古典に接する機会はなかったようで、せめて明恵上人の夢日記を読む機会があったなら・・・と日本の読者としては思ってしまいますが、そこは河合隼雄の「明恵、夢を生きる」や澁澤龍彦が編んだアンソロジー「夢のかたち」で補えばよいでしょう。ともあれ、軽く読み流せる断章から、ずっしりとした読後感を残す短編まで、さまざまな夢を味わえるユニークなアンソロジーとしての本書の価値は揺るぎません。同じ河出文庫に入っている「幻獣辞典」や「ボルヘス怪奇譚集」と共に、アンソロジスト・ボルヘスの面白さに触れて欲しいです。
ちなみに夢をテーマにしたボルヘスの作品として、代表作である短編集「伝奇集」の中の一編「円環の廃墟」があります。まさに夢による入れ子構造の原理によってつくられた名編ですので、こちらもぜひ。
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