
松岡正剛『外は、良寛』
松岡正剛さんが亡くなりました。享年80。残念です。
松岡正剛…しばらく「セイゴオさん」と語らせてください。
セイゴオさんの代表的な仕事といえば、雑誌『遊』や千夜千冊。大著『情報の歴史』などがあげられるでしょうが、訃報に接して私が思い浮かべたのは、月づくしの『ルナティックス』や弱さをテーマにした『フラジャイル』、そして本書『外は、良寛』でした。“知の巨人”などという、あまり意味のない呼ばれ方をされたこともあるセイゴオさんでしたが、これらの本からは、そうしたイメージしてからは程遠い、繊細で切実なものに感応する、しなやかな感性を持ったセイゴオさんの人間性が浮かび上がってくるのです。
良寛は空海と並んで、とりわけセイゴオさんが関心をもっていた僧です。本書では良寛の生涯と書を語りながら、「遊び」の本質や、吃音性についての考察、耳をすますことなどについて、自在に編集の翼を羽ばたかせていきます。
本書の最初と最後は良寛が残したこの歌が引用されます。
淡雪の中にたちたる三千大千世界(みちあふち) またその中にあわ雪ぞ降る
良寛の歌の中で淡雪が舞い、セイゴオさんはそれを眺め続ける。いつしか舞う雪はさまざまなテーマを持って拡がり、読者の心の中に積もっていく。本書はそうした本なのです。
本書が単行本として刊行されてから10年後、千夜千冊が千冊目を迎えました。当初は千冊を持って一区切りとなる予定だったので、最後を締めくくる一冊となるのは何になるのか、読者は固唾を飲んで見守っていたのですが、選ばれたのは『良寛全集』でした。
その千夜千冊の終わり近くになって、セイゴオさんは力をこめてこう綴りました。
〈こうして、良寛はどんなときも、一番「せつないこと」だけを表現し、語りあおうとした。「せつない」とは古語では、人や物を大切に思うということなのである。そのために、そのことが悲しくも淋しくも恋しくもなることなのだ。それで、やるせなくもなる。
しかし、切実を切り出さずして、何が思想であろうか。切実に向わずして、何が生活であろうか。切実に突入することがなくて、何が恋情であろうか。切実を引き受けずして、いったい何が編集であろうか。〉
セイゴオさんは自身のことを「生涯一編集者」と規定していました。それはまさしく切実さを秘めた、セイゴオ流の生きる方法だったのです。
松岡正剛氏のご冥福を心よりお祈りします。