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マルグリット・ユルスナール『東方綺譚』

ベルギー生まれではありますが、フランス文学を代表する作家の一人であるマルグリット・ユルスナール。彼女の代表作としてはフェミナ賞(フランスでもっとも権威ある文学賞のひとつ)を受賞した長編、ローマ皇帝ハドリアヌスがその半生を振り返る『ハドリアヌス帝の回想』と錬金術師ゼノンの生涯を描いた『黒の過程』があげられるでしょう。

この短編集の原題は『Nouvelle Orientales』。つまり西洋から見た東方(オリエンタル)ということで、中国、インド、日本、ギリシア等が舞台となった短編が収録されています。全9篇のうち最後の『コルネリウス・ベルクの悲しみ』だけはオランダが舞台なのですが、話の雰囲気が他の8篇と調和しているという理由で収められたとのこと。

日本の読者としてまず目を引くのは、源氏物語を題材にした「源氏の君の最後の恋」でしょう。紫式部は光源氏の死を「雲隠」という帖の名前だけ残し、本文はあえて空白にしたのですが、その書かれることなかった光源氏逝去の場面を描いたものです。光源氏の最期を看取ったのは誰なのか。初読の際はその着眼点に舌を巻きながら、作中人物の心情に思いを馳せていました。単なる〈日本趣味〉に終わらず普遍的な作品に仕上げてるのはさすがです。米澤穂信さんが編んだアンソロジー『世界堂書店』にも選ばれていたので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。

しかし、私の一番のお気に入りは巻頭に置かれた「老絵師の行方」です。現実を超える美しい絵を描く絵師が、その技量のゆえに現実を支配する皇帝の恨みを買う、という美と現実の相剋がテーマとなっているのですが、観念的になることなく、気品のある文体と美しい風景描写で読者を魅了してやみません。何よりも山水画のような情景描写が深い余韻を漂わせる終結部が素晴らしい。ほとんどの読者がこれを読んでいる間はフランス作家によって書かれたことを忘れてしまうのではないでしょうか。まるで『荘子』や『列子』なような道家の思想書から抜き出してきたかのような世界がわずか30頁足らずの小品に広がっているのです。

ユルスナールの代表的長編、『ハドリアヌス帝の回想』、『黒の過程』はどちらも小説を読む醍醐味を味わうことのできる傑作中の傑作です。とはいえ、いきなり長篇はちょっと…と尻込みする方がもしいたならば、この短編集『東方綺譚』をユルスナール入門の一冊としてぜひお勧めしたいですね。

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