ペーター・ヴァン・デン・エンデ『旅する小舟』
夜の大海原を進んで行く一艘の小舟。一枚の紙を折って造られた、頼りなく見える舟です。夜空には一面の星が煌めき、海の中には無数の魚の群れが眼を光らせて船底の近くに群がっています。小舟を包む無数の光はこれからの旅路の希望と不安を表しているように思えます。この表紙にまず惹き込まれました。そして表紙を開くと、そこにはこちらの想像を超える途方もない世界が拡がっていたのです。
ペーター・ヴァン・デン・エンデはベルギー、アントワープ生まれ。デザイン技術だけではなく生物学も学び、カリブ海のケイマン諸島でネイチャー・ガイドもしていた経験のある持ち主です。『旅する小舟』は2019年に発表されたデビュー作。各所で高い評価を受けましたが、日本では翻訳家の岸本佐知子さんがいち早く絶賛しました。私が本書の存在を知ったのも岸本さんを通してです。書店で見かけた時、彼女の解説は掲載されていたものの、翻訳のクレジットが無かったことに戸惑いましたが、ページを開くやその戸惑いは氷解しました。この本は文字が無く、絵だけで構成されていたのです。
文字が無く、色も黒と白だけのモノクローム。しかしそれを物足りなく思う読者はまずいないでしょう。全てのページが繊細な線で細部まで稠密に描かれ、とてつもない情報量です。小舟が行く先々で出会う奇怪なクリーチャー達は現実の動物をベースとしながらも、エンデの想像力で自在にデフォルメされています。これがまるでコロンブス以前の、まだ世界が未知に満ちた時代の博物図鑑を見ているような趣があるのですね。1ページ描くにも相当な労力と時間がかかったであろうことは想像に難くないのですが、そのおかげで読者はエンデの拡げた翼の上で、イマジネーションを存分に働かすことができるのです。
幻想的かつSF的な要素も織り交ぜながら進んでいく航海の軌跡は圧倒的な読み応えがあります。一度読了してからも、一つひとつのページに秘められた謎を解くために、何回でも読み返したくなる絵本です。