見出し画像

谷崎由依『鏡の中のアジア』

チベットの僧院で日々修行を積む「彼」。まだ変声期を抜けきれない「彼」が住む土地にとって、書物は世界そのもので、この世のすべては何千、何万巻もある経典に閉じ込められているもの。「彼」や他のひとびと、周囲の森羅万象はすべて書物の中から生まれ、いまなお刻々と生まれ続けている。風が強い日はいっせいに文字たちは四方に拡散し、風がやんだらどこかの国の地に落ちて、やがてあらたな砂となる・・・。

これは本書の冒頭におかれた「・・・そしてまた文字を記していると」の登場人物である「彼」が感じている世界像ですが、本書に収められた5つの短編は風に舞い、四方に拡散した文字たちが地に落ちた言葉で書かれているように思えます。舞台となるのは、チベットを始めとして台湾、日本、インド、そしてマレーシアですが、どれもその土地に住む人びとや風習、自然の情景をリアリティたっぷりに描いたものではありません。世界があり、それを小説という鏡に反映するのではなく、小説をなす言葉それ自体が世界となっている小説。本書は『鏡の中のアジア』と題されているにもかかわらず、スタンダールが『赤と黒』の中で語った「小説は街道を歩んでいく鏡です。」とは反対の方法論で書かれているのです。

紙であれ電子書籍であれ、本を目にする読者の前には物質である文字が広がっています。本書の短編はどれも魅力的なモチーフをもつものですが、読者が物質である文字を目にしていることを忘れて物語に没入するようにはつくられていません。雨が降る音は「しとしと」や「ばらばら」ではなく「shito,shito」、「barabara」と書かれ、チベットの僧侶が持つ筆にはpenとルビがふられます。こうした表記に接する度に読者は自分が文字を読んでいることを意識せざるを得ません。

物語の中に深く入り込みそうになるところで、紙、もしくは電子媒体の表層に記された文字に引き戻される奇妙な読書体験。しかし、このすべてが表層にとどまっている状態とはまさしく鏡を見る体験と重なるのではないでしょうか。鏡に映った世界はどんなに奥行きがあるように見えても、鏡の表面に留まっているイメージに他なりません。つまり、この短編集はスタンダールが提唱したリアリズムとは別の在り方で、小説が鏡であることを証明しているのです。

話が抽象的な方向に偏ってしまいましたが、先にも触れたように、本書の5つの短編はいずれも物語としての面白さも持ち合わせた秀作ぞろいであることは語っておかねばなりません。なかでも最後に置かれた「天蓋歩行」は質・量とも群を抜いた傑作。かつて熱帯雨林の巨木であった過去を持つ男が語るその物語は、読者一人ひとりが持つアジアのイメージを刺激し、心に豊かな実りをもたらすことでしょう。

著者の谷崎由依さんは本書で第69回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞しました。このとき、文部大臣賞を受賞したのは山尾悠子さんの『飛ぶ孔雀』です。かつて「誰かが私に言ったのだ。世界は言葉でできていると」と記した山尾さんと同時に本書が受賞したのは私には単なる偶然とは思えません。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集