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石川淳『荒魂』


佐太がうまれたときはすなわち殺されたときであった。そして、これに非情の手を下したものは父親であった。ただし、このおやじ、もともと気の小さいやつで、コロシなんぞというすさまじい気合はみじんも見られず、またそれがとくに人情に反する行為にようにおもうわけもなかった。山国の村は風あらく、家の中は吹きさらし同然、そうでなくても、やぶれ畳の上に余計なガキがすでに五個もころがっているところに、また一個ふえたとすれば、いや、どこの家でも毎年一個はふえることになっていたものとすれば、風俗はどういうことになるか。おやじは村のしきたり、すなわちおひとよしの秩序にしたがって、畳からはみだした六番目の余計者を、裏の畑の林檎の木の下に、穴を掘ってうずめることにした。人間の子といっても、肉は畑の泥そっくり、一にぎりのふにゃふにゃしたやつにイモの子ほどの生命力があるかどうか。ときに、林檎の実は大きくあかあかと照って、決してこの土地にはとまったことのない汽車が遠くにがーっとはしり過ぎて、村は晴天であった。
(『荒魂』冒頭部)


これまでの長編では昭和初期(『白描』)や大正時代(『白頭吟』)を背景に複雑な人間模様を描いていた石川淳が、はじめて(おそらく執筆当時の)現代社会を舞台にした作品。
生まれたとたんに生き埋めにされてしまう、佐太の強烈な登場で幕を開ける本作は、しぶとく穴から這い出てきた佐太が、その狂暴な力により村に伝説を残し都会に向かうところから本格的に動き出します。

村ではまさに“荒ぶる神”のごとしだった佐太が、都会でもその力を存分にふるって大暴れする・・・というなら本作はわかりやすいピカレスク(悪漢小説)となるのですが、そう簡単にはいかないのが石川淳。都会に舞台を移してから読者の目の前で繰り広げられるのは、野心と欲望に突き動かされる人間たちの権謀術数が乱れ飛ぶドラマです。財閥の会長を暗殺し、乗っ取りをたくらむ井筒又彦、その財閥の会長としてたくわえた巨大な富を活かし、保守新党を結成し政界への進出を狙う潮弘方、その愛人として潮の隠れ家である料亭「柏」に囲われている照子と三穂は井筒の野心を利用して自分が企業を牛耳ろうと機会を虎視眈々とうかがっています。さらにそこに三穂の夫で、考古学者の阿久根秋作、照子がボディガードとして採用したガンの名人ハンタとその恋人でカトリックの信仰厚いトチなどがからんでいくのですが、無関係かと思われた人物が思わぬきっかけでつながったり、登場人物のそれぞれが衝突・反発を繰り返すさまは、さながらピンボールやビリヤードで打ち出された球があちこちでぶつかり弾けていくがごとくです。

では、そうした中にあって佐太はどんな位置を占めているのでしょうか。当初こそ佐太は肉体労働者として現れ、井筒の命令によって潮の暗殺をもくろむ平六の仲間として行動しているのですが、物語が進むにつれ次第に人間離れしていき、一種の巨大なエネルギー体のようになっていくのです。この小説の登場人物の動きをピンボールやビリヤードに例えましたが、佐太の存在は最初に球を打ち出すキューの役割を果たしているといってよいでしょう。佐太のおもむくところ、登場人物それぞれの野心や欲望は増大し火花を放つのですが、佐太が過ぎ去っていくと彼らの行動は力を失い、次々と財産を失ったり、野心が頓挫する憂き目をみることになります。

唯一の例外が考古学者の阿久根秋作。祖父の形見のブルーダイヤモンドを靴のかかとに忍ばせ、仕込み杖を手にして歩く彼の行動原理はぎらついた野望ではなく、佐太の正体を見極めることにあり、傍観者的な位置づけとして存在しているので佐太の影響を免れたといえるでしょう。物語の中で彼が見出した佐太の姿とはなんだったのかは本文に就いて欲しいのですが、人によってはロラン・バルトの「空虚な中心」を連想し、本作に日本的権力構造のカリカチュアを読み取るかもしれません。

ただ、私の感覚としては、佐太はバルト的な空虚な中心よりも松岡正剛流の「負の中心」とみなした方がしっくりきます。負であるがゆえにあらゆるものを産み出す源泉となる、世俗的な善悪を越えたエネルギー。それはこの長編を推進してきた言葉そのもののエネルギーではないでしょうか。本作は花と娘たちをしたがえた佐太が小説世界から退場するところで締めくくられます。病床にいた阿久根は看護師に頼んで籠の花をそこに降り注いでもらうのですが、それはその根源的なエネルギーへの賛歌であり、読者に不思議な爽快感を残してこの小説は終結します。

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