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松浦寿輝『名誉と恍惚』
久しぶりに重量感のある読み応えの小説に出会いました。
主人公やその周辺の行動・心情にとどまらず、登場人物を取り巻く時代にも正面から挑んだ大作で、
読みながら、今はほとんど使う人がいなくなった「全体小説」という言葉が幾度も思い浮かびました。
舞台となるのは第二次世界大戦の足音が迫っている魔都、上海。
東京警視庁から共同租界を管理する工部局の警察部に派遣されている、主人公の芹沢が
ある時日本陸軍諜報機関の嘉山少佐に、上海の青幇(チンパン)の頭目・蕭炎彬(ショーイーピン)に
会わせて欲しいと秘密裏に頼まれたことから物語は始まります。
芹沢の運命はこれをきっかけに大きく動き出し、波乱の渦に巻き込まれていくのですが、
その過程を松浦さんはじっくりと描き出していくので、読者によってはもっとスピーディーな展開を望んで、
もどかしく感じることもあるかもしれません。
しかし、このじっくりした歩みこそが本書を「全体小説」としている所以で、嘉山少佐の謀略に
翻弄される芹沢の心情や出生の秘密が徐々に明らかにされる中、中国全土を勢力下に置かんとする
陸軍の動向や、上海の共同租界の情景が当時流行していた音楽や映画についても
丹念に描写されていきます。さらには生々しいセクシャルな場面挿入され、読み進めながらいつしか読者は
1930年代の上海の空気を肌で感じるような感覚にとらわれていくでしょう。
そして、文庫本上巻の終わり近くになって、主人公の運命を決定づけた大きなできごとが起こります。
そこから下巻にかけての展開は上質のサスペンスの要素も加わって、一層目を離せなくなるスリリングな
ものとなっていきます。
タイトルとなった「名誉」と「恍惚」の主題は、本作の終わり近くのクライマックスの場面で
ようやく明示されるのですが、スタンダード・ナンバー「I Can't Give You Anything But Love,Baby」や、
「I'm Getting Sentimental Over You」が流れる中行われる芹沢の対決シーンは非常に映画的で、
自分がその場に立ち会っているかのような錯覚に襲われました。
本書のエピローグは単行本化に際して加えられたもの。一気に50年の時が経過するのですが、
そこで再び上海の地を踏んだ芹沢の胸に去来する感慨の苦さが、単なるハッピーエンドに終わらせない後味を作品に与え、読後の余韻をより深いものにしています。