過去は変わる? 【青二才の哲学エッセイ vol.10】
私は就職を機に地元から上京し、それ以来東京の西の方に住んでいる。都会の喧騒も感じられず落ち着く場所だ。終電くらいの時間になると人気も車通りもなく、近くの大学生らしき若者が一人で歌を熱唱しながら自転車を漕いだりしていて微笑ましい。これくらいでちょうどよかった。
地元は東京からかなり遠いこともあり、上京してくる人間はあまり多くない。本当は上京してきている人間がもう少しいるのかもしれない。この前、東京にいる数少ない地元の友人から、「東京で『〇〇県人会』なるものを開こうぜみたいなことを同じ高校だったやつが言ってた」と聞いたが、初耳だった。そいつが東京にいることすら知らなかった。俺に言うのをちょっと忘れちゃっただけだよね。そうに違いない。あまり気にしすぎないようにしよう。
数少ない地元の友人というのは、高校の時に同じ野球部だった奴らだ。大学は違うが、皆就職してから上京したということも共通している。会うのは半年に一回くらいだが、そのたまの飲み会が楽しい。地元から遠い場所で頑張っている同士という感情が心の奥底にあるからなのか、東京にきてから少し一体感みたいなのがあって、より仲良くなった気がする。特にその中の一人は正直そんなに仲良くなかったように思う。そいつはエースで目立つ存在、かたや自分は補欠で目立たない存在だったこともある。二人で飲みに行ったりもするのだが、そのことを地元の他の野球部の人間に話したら目を丸くして驚いていた。「そんなに仲良かったっけ?」ならまだしも「話をしてるイメージすらわかない、何話すの?」とか言われる始末。ひどい。ただ、人間関係というのはわからないものだ。同じように東京に来てなかったら絶対こうはなっていなかった。運の要素もあると思う。
でももっと最近不思議に思うのは、そいつの語る過去の私のエピソードが変わっているような気がする、ということだ。集まると必ずと言っていいほど高校時代の野球部の時の話になる。そこで私の話にもなるのだが、例のエースくんが「代打で打ってた」とか「お前がレギュラーになれなかったのは運が悪かっただけ」とかいうことを言ったりする。嬉しいことではあるのだが、そんなはずはない。本当に私のことなのだろうか。誰かと間違えているのではあるまいか。代打で打った記憶どころかそんなに出させてもらえた記憶すらないし、3年生夏の最後の大会は18人ベンチ入りの中で背番号18をつけ、ギリギリで滑り込んだくらいの実力だ。1塁ランナーコーチで「バッターがベースを駆け抜けた時にセーフのアピールをする」「バッターがデットボールを受けた時に冷却スプレーをかけてあげる」といった役目を全うしたのもいい思い出である。(ちゃんとしたランナーコーチは他にももっと立派な仕事をしているので誤解の無きように)当然出番はなかった。プレーはしていない。彼がどういうつもりで言ったかは知らないが、運でどうこうなるくらいのレギュラーとの実力差ではなかったはずである。
こんな感じで野球のこと以外でも、彼の語る私の昔の印象は、仲が良くなったからなのかもしれないが、若干美化されたものが多い気がする。「いやお前そもそも俺のことそんなに興味なかったやろ」と毎回ツッコミたくなるものだが、今の状況は都合がいいと思うので言わないでいる。というか最近は、ここまでくると、逆に私の記憶が間違っているのだろうかとさえ思えてくる。私が、「どうせこんなもんだろう」という感じで低く見積もって思い出しているのだろうか。記憶というのは曖昧なもので自分のことですら怪しいものも多い。
記憶を呼び起こすということは、テープを巻き戻すように過去を引っ張り出すようなことではない。断片的なものの組み合わせだ。そうして過去のストーリーを作る。私の個人的な意見だが、その時その時で思い出す過去の印象が変わることがありうるのではないかと思う。例えば、私が「Aくんの当時の印象を思い出そうとしている時」を考えてみる。過去を思い出そうとしている主体は当然、現在の私である。現在の私がものを考えているのだから、現在のAくんの印象やその時の自分の状態に、無意識のうちに影響を受けるということがありうるのではないだろうか。現在のAくんの印象が良ければいいように捉えられ、悪ければ悪いように捉えられるということだ。「寡黙」が「思慮深くて知性的」にも「暗くて印象にない」にもなり得るのではないか。現在の印象に合致するように、エピソードの削ぎ落としや、現在のAくんとの関連付けが行われると思うからだ。それが膨らんで、もしかしたら、Aくんの過去にはなかったエピソードが生成される、ということもあり得るかもしれない。「Aくんは良い人(嫌な人)だからきっとこうであったに違いない」というように。
人は何かを判断する前に、無意識のうちに判断の大半を決めていると「ファスト&スロー」(ダニエル・カーネマン)という本にあった。何か物事を見聞きする前に、無意識のうちに「こうであるに違いない」と人はある程度の判断を決めているらしい。何かを思い出す時にも、このことは適用されるのではないかと思う。話は少し変わるが、歴史上の偉人の印象が研究者によって違うということにも繋がりがある気がする。
逆に、「こうであって欲しい!」という思いから、それに見合うエピソードを持ち出す、ということもあるかもしれない。
昔の自分が周りの人にどう思われていたかを気にしすぎても仕方がない。繰り返しになるが、人の記憶とは曖昧なものであるし、今どうであるかの方がよっぽど大事だ。人生何度でもやり直せる。
これを書いている途中にエースくんから飲みに誘われた。たまには感謝の気持ちでも表してみようか。気持ち悪がられるだろうな〜。
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