救いようもなく病んでしまう日々の中で
第一志望の企業に落ちてしまってから、気分の上がり下がりがものすごく激しい。
先週は本当にひどくて、1人になると勝手に目から涙がぼろぼろと落ちてきて、腫れ上がった目はそのまま数日間なかなか治らなかった。
けれども、週末はなんとか乗り切った。バイトがあったり、誕生日を迎えた叔母と美術館ーーデ・キリコ展に行った、ものすごく力強くてこころうたれたーーに行ったりで、幸いメソメソ泣いて悲壮感を漂わせることはなかった。
そして迎えた本日、月曜日、午前中は雨も降っていたからか、私の気持ちは闇の底、果てしなく暗い場所にぽつりとあった。
目が覚めた瞬間に、察する暗い予感。今日はきっと落ち込む日になる、と恐れながら、なまりのように重い体を起こした。
暗い予感を察した時、私が試すようにしていることはいくつかある。
1つは、散歩。しかし、これは気温のちょうどよい、晴れた日に限られる。厳密には、3月〜5月と10月〜11月の晴れた日だけ。きわめて少ない。
そして散歩をする上でひとつだけ決めていることは、素足にビルケンシュトックをつっかけて家を出る、ということだ。
去年の夏に父に買ってもらったお気に入りのビルケンシュトック。去年、ひと夏をかけて、丁寧に履きならした。
私の外反母趾気味の少し歪な足の形にぴったりとはまるようになったそれをつっかけて家を出ると、
遠くまでは行ってやらないぞ、すぐに安全な家に帰るんだ、という気持ちをもったまま家を出られるし、なんといっても足の皮膚に外気が当たる、ということは少しだけ非日常で、とてつもなく解放感があり、気持ちがいい。それだけで少し自由な気分になる。
今日も、夕方から散歩に出た。ラジオーーお気に入りのビブリオシカという番組ーーを聴きながら。
今回のラジオは、"個人的神回"だったので、家に帰ってもう一度聞き直し、メモを取った。あのラジオは闇へ落下していく私をふわっと掬い上げてくれる。
散歩をしていて、ふと思うことは、「平日の昼間に、こんなふうに眉間に大きなしわを寄せ、深刻な顔で腕を組みながらとぼとぼ散歩している大学生は、日本にどのくらいいるのだろうか?」ということ。
世間が抱く"大学生"のイメージとは、ずいぶんかけ離れたところまで来てしまったな、などと思い、重ねて落ち込みそうになる。
ただ、なにがあろうと、散歩をすれば、気分は必ずマシになる。
あとは、定番だけれど、読書や映画、音楽もいい。
読書だったら、私の場合は、夕方のまだ外があかるいうちにお風呂に浸かって、江國香織を読むとある程度すくわれることが多い。
映画は、フランス映画のいい具合に退屈なやつがいい。フランス映画には、さらっとふっかいセリフが出てきたりするから、それもいい。
音楽は、歌詞を見ながら聴くに限る。何度聞いても痺れるのは、スピッツの『美しい鰭』。
YouTubeで動画をみるのもいい。(ただし、何を見るかの選択を間違えると、闇は深まる。)教養を深めたい時は、山田吾郎さんの美術動画を見ると心も頭もうるおうし、M-1の決勝進出者発表の動画などもビリビリくるものがある。
少しエネルギーが残っていたら、自分の過去のメモやnoteに溜まった下書きを読み返すのもいい。
やかましながら、「お、過去の私、結構、真なこと考えてるじゃん」と思ったりする。
Xのいいね欄ーーだけ、タイムラインは絶対見ないーーを見返すのもいい。今の自分に適当なライフハックが見つかってラッキーな気持ちになったりする。
私は、こうやって日々を乗り越えている。
時間よ、止まってくれ、ゆっくり納得いくまでいろんなことを考えたいの、と最近毎日思っている。
でも、無情にも時間はするすると過ぎていく。
もう何遍も壊れそうになってきたけど、いつも徹底的に壊れる一歩手前でふみとどまれてしまう。へんな冷静さまで併せ持ってしまっているから。壊れられない私は、仕方なく日々のどんな予定も滞らせることなく執行してきた。
私の人生にたいした事件は起きない。なのになんでこんなに頻繁に、そして切実に世界に絶望しているのか、憂鬱な気持ちになっているのか、よくわからない。
これを不器用に生きている、というのだろうか。
こんな風に勝手に苦悩した先にきっとなにかがある、という予感もない。
ただ、こういう風に考えていないと生きられない体質なだけなのだ。
明日の朝の気分はどうだろう。晴れやかな気分までは望まない。ただもう、この世界にも自分にも絶望だけはしたくない。